human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

極北にて(0) - マーセル・セロー『極北』を読んで

表題の通り、図書館で借りている『極北』を読了しました。

貸出延長手続きを忘れて延滞になっていて、すぐ返す必要があります。
もちろんすぐ返すつもりですが、「読んでおしまい、さあ次の本だ」という風にはなりそうにない。
それだけ、これが僕が読みたいと思っていた本(このことにはいつも、読んでから遡及的に気付きます)、じっくり腰を据えて考えざるを得ない、そう思わせる本だったということです。

 × × ×

きっかけは、背表紙の「村上春樹・訳」が目に入って、手に取ったのでした。
著者は、今はわかりませんが、出版当時の日本では無名であったようです。
そういった著者略歴のようなことにも触れた訳者解説では、最初にこういったことが書かれています。

あとがきを先に読む人もいるだろうから(別にそういう姿勢を批判しているわけではない)、ここでは本の内容には触れないが、著者がなぜこの本を書くに至ったか、その事情は知っておくべきだと思うので記す。

「その事情」を読んで、「なるほど」と思う。
このような経緯があって、セロー氏はこの本を書くことができたのか、と。
でも僕は訳者の、解説におけるこの作品への気遣いを了解したうえでなお、解説をあとで読んでよかったと思いました。


「物語の意外性」、この性質は小説の訴求力となる、主要な力の一つであり、何がしかの読書事情によってこれが失われると、その小説の魅力の大事な部分が大きく削がれてしまう。

僕は上述の「なるほど」という事情の得心は、読後でいいじゃないかと思いました。
極端にいえば、「物語の意外性を損なわない解説」なんてものはないだろう、ということです。

個人的には、「その作品を読んで思いついた、(魅力的だが)作品とほとんど関係のない話」が秀逸な解説、もとい「悪影響のない解説」だと思っていますが、一般的な思考に基づけば、それは作品解説とは言えないのでしょう(嬉々としてそういう解説ばかり書く人を知っています。そして、そういう解説しか書き得ない本ばかり書く人も知っています。この二人が対談して出来上がった本は、そのタイトルが著者をそのまま表わすという事態になっています*1)。


言いたかったのは、『極北』はほんとうにまっさらの頭で、事前情報なしに読んでほしい小説だということです(この意味では、本記事の以下の節の内容は若干「抵触」しています)。
僕は本書を手に取った時は、タイトルと装幀から、北国の生活事情が事細かに書かれているんだろうな、くらいしか想像していませんでした。

それは間違いではありませんでした。
そしてすぐに、自分の他愛ない予想が当たろうが外れようが、そんなことはどうでもよくなりました。

 × × ×

この本からいくつか引用して、その一つひとつを思考の出発点にしよう、というようなことを考えて、本記事はその出発準備のようなものなのですが、この準備を始めるにあたって(つまり出発準備の準備中に、ということですね。ややこしい)、『時代を読む』という対談集の一節を連想しました。

この本は鶴見俊輔河合隼雄がホストとなって、二人が喋りたいと思っていた人々に(たぶん編集部が)アポをとって鼎談するという、古いですが(何しろ河合隼雄が若手の立ち位置にいるのです)豪華キャストが勢揃いした本です。

この二人と、ゲストの筒井康隆とが『文学部唯野教授』を肴に議論する章で、筒井氏はこんなことを言います。
芸術にいちばん必要なのは教養であるとガダマーはいうが、ぼくは教養とは感情移入の能力じゃないかと思う、という文脈に続いての発言。

筒井 感情移入できるということは何についても必要でしょう? 小説を書く人間もそうだし、読むほうもそうです。しかも感情移入というのはレベルがあるんですね。例えば小説を読む場合に、ふつうの人は主人公に感情移入します。少しレベルが上になってきたら、今度は作者に感情移入する。私小説なんかで言えば、作者と主人公が重なっている場合もありますけれども。あと、風景描写とか、そういった擬人化されたものに感情移入する。それから言語に感情移入する。そういうふうにレベルがどんどんどんどん上がってくるわけです。そうすると、最後にこの小説がなぜ書かれたか、世界のなかでいまどういう位置を占めるかという高みにまで感情移入の側面から達することができるんじゃないかとも思うんです。

「『文学部唯野教授』の摩訶不思議体験」p.259-260(鶴見俊輔河合隼雄『時代を読む』潮出版社、初版1991年)

感情移入のレベルがあり、それは練度によってどんどん上げることができる。
どういう感情移入の種類がどのレベルなのか、という位置づけは鵜呑みにできませんが、いろいろな感情移入の種類があるという視点はとても興味深いと思いました。
特に、「風景描写に感情移入する」という発想。

保坂和志は真逆の発想、風景(猫を含む)描写を感情移入からいかに遠ざけられるかという思想で小説を書いていますが、僕は筒井氏のこの発言と保坂氏の思想は表裏一体だと感じていて、その根拠は僕自身の中でこの両極にあるはずの2つが干渉なく落ち着いて各々の魅力を発しているからというと論理もへったくりもないですが、それはまた別の話。


『極北』を読んだあとに、筒井氏の視点を借りて、僕はこの小説の「どこ」に感情移入しただろうということを考えて、それはとても広い範囲のことであったなと思いました。

風景への感情移入、それは俳句や短歌にみられる日本古来の文化であって、橋本治は「日本人は風景を涙でビショビショにした」とどこかで書いていましたが(『風雅の虎の巻』だったかな)、自我肥大というのか、ある種の傲慢さにつながるものでもありますが、逆に自己の境界が薄れて、「自我密度」なるものの分母が身体の大きさだとすればその密度はどんどん小さくなる、アニミズムや八百万信仰に結びつくものでもあるはずです。

そう考えてみると、物語とはまことに不思議な作用を持つものだと思います。

自我の一大拠点である脳をぐるぐる回し続けて、内に閉じこもっていくかと思えば、クラインの壺みたく、どこかで内部面が外表面と入れ替わっている。
その表面の遷移は、比喩ではなく、人体そのものが開放系のトーラス状*2であることの把握なのかもしれません。

時代を読む

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*1:

橋本治と内田樹

橋本治と内田樹

*2:つまり、人体は入り口が口で出口が肛門である一本のチューブ(管)だ、ということ。