human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「"身銭を切る"は市場原理への反逆である」論

 一人一人のアウレリャノがどういう人で彼が何をしてきたかを憶えていれば、何人アウレリャノが出てきても混乱はしない。そういう風に記憶していくためには、『百年の孤独』は一回真っ直ぐに通し読みしただけではダメで、読み終わったところを何度も何度も読まなければならない。
 効率が悪い? そういう読み方は効率が悪い?
 読書とは効率とは無縁の行為だ。「一晩で読んだ」「一気に読んだ」という、本の宣伝文句がよくあるけれど、これくらい読書という行為の価値を殺すものはない。読書は単位時間あたりの生産性を問われる労働ではないのだ

「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」p.155(保坂和志『小説の自由』)

下線部について僕も常々そう思っていて、本の価格がページ数に影響されるとか、古本量販店では出版年が古ければ安くなるというように、本の内容が流通価値(つまり値段)に全く反映されていないことが、良し悪しの問題ではなくて(これは本が商品となったことの運命的結果でしかない)、本は本質的に市場原理と相容れないことを示している。

それはよくて、保坂氏ならやはりズバリと言うなと感心したというか溜飲が下がる思いがしたと同時に、ここを読む直前に読了したイリイチの本の一節を思い浮かべました。
実際は訳者・玉野井芳郎氏の解説の中で本文を引用した箇所ですが、その本文の周辺も含めて引用します。

 経済学者は、自分が計測することのできる領域しか扱うことができない。非市場的な領域に侵略を開始するためには、目盛りをつける新しい物差しを必要とする。(…)ピグーは<影の価格>をそのようなひとつの用具として定義した。その用具としての<影の価格>とは、今日、金による支払いなしに行われている財やサーヴィスといったものを換算するのに必要な貨幣のことである。こうして支払われないものが、そしておそらくは価格のないものさえもが、商品の世界と矛盾するものではなくなって、操作と管理と官僚的な開発が可能となる領域へと登場することになった

「3 ヴァナキュラーな価値」p.76-77(I.イリイチシャドウ・ワーク』)

引用部の文脈で念頭にあるのは「直接的に生産性には関わらないが、生産性に奉仕する活動」で、その代表例として主婦の家事労働が挙げられています(この例だと、生産性=夫の賃金労働、です)。
イリイチはこの活動に読書を含めてはおらず、というか「この活動」とは本のタイトルである「シャドウワーク」のことで、ワークと名のつくところからして読書などの趣味は含まれないとわかります。
が、ここではイリイチの本の論旨からは離れて考えます。

本の価値が時間効率やコストパフォーマンスで測られている社会の現状が語るのは、本の本来的な価値が内容にあり、内容の価値基準は読み手一人ひとりにあるのだとすれば、本という「おそらくは価格のないもの」が、流通過程でその本質をないがしろにされた結果、「商品の世界と矛盾するものではなくなっ」たことである。

僕の連想を言葉で整理すれば、このようになります。

 × × ×

それはよくて(話が進まなくてすみません)、その連想があって、さらに思い浮かべたのが「身銭」という言葉でした。

「身銭を切る」という言い方があります。
この表現は、手持ちのお金が少ないが今どうしても欲しいものがある、という時などに使う。
語源は知らないしここでは調べずに想像で書きますが、字面からして「身を切られるような痛み」が、ニュアンスとして込められていると思います。
すると、こう考えられる。
出費が痛みを伴うのは、その出費を容認する資金的な余裕がないからである。
…ただの繰り返しですね。
言いたいのは、一般的に、お金に余裕がある時にこの表現は使わないだろうということ。


でも、もしかしてそれは違うんじゃないか、「身銭」の意味するところは一般的な意味とは別にあるのではないか…
というのが本記事の趣旨です。
話を続けます。


僕は古本屋によく行くこともあり、滅多に新刊を買いません。
新しさに価値を感じていないこと、読書を実用と切り離して考えていること、などいくつか理由はあります。
古本を買う価格感覚に慣れすぎて、新刊を高く感じるから買わない、これが一番大きいかもしれません。
理由はどうあれそのおかげで、たまに新刊を買おうとすると、すごく躊躇するし、迷うし、思考や判断に時間をかけます。
そして、さんざん悩んだ結果、本を手にレジへ持っていく時に、いつも「身銭を切る」という言葉を思い浮かべていました。

そうやって新刊本を買う時に、判を押したように繰り返される思考に対してとくに違和感はありませんでしたが、上記のようにつらつらと考えていて「あれ?」と思いました。
僕は別に、数千円を本に費やしたからといって、夕食を何日か抜かなきゃならないほど困窮しているわけではないのです。
手持ちが少ないわけでもなく、またそうしたければ、本を買うかわりに抑えることのできる余計な出費だってある。
端的にいえば、僕にとって新刊購入は「お金はあるし、そう高価なわけでもないが、それでも痛みを伴う出費」です

では、その「痛み」とは何を意味するのか?


これまで上に書いてきたことと関係しますが、この「痛みを伴う出費」とは、つまり「自分で価値を見出す(創り出す)必要のある出費」なのです。

価値がわかっていないものに対して、お金を払う苦しさ。

大袈裟に言えば、「市場原理に対する抵抗」によって発生する痛み。

あるいは、市場原理の名の下で明確かつ確固として存在しているはずの「お金の価値」が、自らに一任されているという重責に伴う痛み。


無謀で過剰な散財のことを「金をドブに捨てる」と言いますが、たぶん、これよりもっと苦しいものです。
この表現に寄せて言えば、「自分で価値を見出すべき出費」は、「金をドブに捨てることになるかもしれない出費」です。
自暴自棄であれ何であれ、通常の(?)散財では自ら了解して行うそれと違って、こちらは自分が手放したお金が無に帰すことなんて全く期待していません。


…と、思いつくまま色々と書いてきましたが、だんだん分かってきました。

「身銭」というのは、読んで字の如く、「お金を身体(の一部)のように感じる」ことである。
だから、出費が指や腕をもがれるような(ヤクザ世界の話みたいだな)苦痛にもなり、その価値が自分の身体のように社会的通念(というか概念)を離れて不安にもなる。

前者と後者とで全く異なる2つの状況が、ともに「身銭を切る」という言葉で表現できる。

面白いですね。(ほんとかな)