human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

高度情報社会と視線過敏症、いつも彼女たちはどこかに

「見る」ことと「見られる」ことの間には、バランスがある。
自分が誰かを「見る」とき、見ている分だけ自分は誰かに「見られて」いる。
たぶん、そういう視線交換回路、または視線交感回路のようなものが、人には備わっている。

その回路は、生身の他者を前にしていない場合にも活動する。

人に見られていると過剰に意識する、プライヴァシーを社会現象にまで押し上げた思い込み。
もちろん実際に「見られ過ぎて」いる例はほんの一握りに過ぎないにもかかわらず、そうと知りながら誰もがこの思い込みに共感してしまうのは、僕らが他者を「見過ぎる」ことができるようになったから。

つまり、視線を感じる自意識過剰はバランサーとして機能している

たぶん、現代社会での生活においてそれが人性の自然で、この思い込みを非現実的と断じて意識の外に追いやる試みはすなわち、抑圧を出来する。
抑圧されたものは、別の形をとって回帰してくる。
自分が何かを抑圧した事実を忘却することで(その事実を忘却していることが、抑圧が成立している証である)、新たに降りかかる現象や症状をその事実と関連付けることは不可能となる。

抑圧の回帰か、回帰ごと抑圧を封じ込めた結果なのかは分かりませんが、指向性の無神経、選択的な感性の欠落という現象はきっと、これらのどこかと関係しています。

「人性の自然」などと書きましたが、その実情を言い換えれば、視線交換回路なるものの焼き切れんばかりの暴発が日常茶飯事である、ということ。
その自然を守り抜くのが楽か、回路の配線を切ったふりをするのが楽か。

これを問題というには簡単に過ぎますが、答えが正解とは限らないのもまた人性です。

 × × ×

 現在のメディア経済は絶えず出来事を作り出し、そして消費し、テレビがラジオにとってかわった。しかしひとつの特殊な点をもって、である。現在は、それがつくられるまさにその時、すでに歴史的に見られること、つまりすでに過ぎ去ったこととして見られようとする。現在は、ある種自分自身にむかって回帰し、それについて人がもつだろう視線を予測する。完全にそれが過ぎ去ったときに、まるでそれが過去を「予見」しようとしていたかのように、その視線はまだ完全には現在として生起する前から過去となるのである。しかし、この視線は、まさに現在の視線なのである。

「第4章 記憶・歴史・現在」p.195(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 - 現在主義と時間経験』)

読み始めたのが去年の暮れのことで、内容が難しくてなかなか前進しませんでしたが、今日第4章を読み始めて、話題が現代に移ったからか急にするする読めるようになりました。
これはまた、サブタイトルにある「現在主義」という言葉から僕が想像していた内容のことが書いてあったからでもあります。

とはいえ、引用の文脈を説明できるほどではないのでちょっと手を抜きますが、上のような話に続いて現れた一節に、連想思考を刺激させるものがありました。

 現在は、自分が自分を見つめるものたろうとし、それに執着することの不可能性を見いだす。(…)経験の場と期待の地平のあいだに絶えず穿たれる乖離、つまるところ断絶を埋めることができないことがあらわになる。自分の泡につつまれて、現在は自分の足元で地面が崩れ去るのをみいだす。

同上 p.202

『いつも彼らはどこかに』(小川洋子)という短編集を、昨日あとひとつを残すところまで読みました。
全体のテーマとか、作者の意図のようなことはあまり考えようとは思いませんが(保坂和志を読んでいるとそうなります)、と言いながらちょっとだけ書けば、どの短編にも動物が出てきてその生態が細かく描写されるいっぽう、その動物に共感を抱く人物が出てくる。
あるいは、独自の習性や嗜好をもった動物のような人物が描かれる。

まあそれはよくて。
この本をだいたい一日に短編1つのペースでゆっくり読んでいたのですが、昨日は一気に2つ読んでみて、(あるいは風邪を引いた鈍重な僕の頭のせいかもしれませんが)これまでとずいぶん毛並が違うなあと感じたのでした。
あとの短編になるにつれ、伏線の放置が増えるというか、なぜこういうことを書いたのか分からない話が増えるようで、いやこんな分析を別にしたいわけでなく、でも昨日読んだ2つには特徴があるように感じました。


動物園の土産物売り場で働く女性を描く「チーター準備中」、それと、カタツムリを飼う風車守の男のもとへ通う女性の一人称語りの「断食蝸牛」(ゲーテだったかな、「断食芸人」というのがありましたね)。
2つの短編のいずれの女性も、他者の視線を偏執的なまでに気にかけている。
 ゾウの視線、チーター飼育担当の青年の視線。
 風車守の視線、療養施設の掃除婦の視線。
そして、どちらかがその代償であるかのように、彼女たちは他者を執拗に凝視し、自分の中で妄想を膨らませる。
それが私の生きがいだと言わんばかりに。

…でも、この2話だけの特徴なのかな、と改めて考えると、そうでもない気もします。

スーパーの食品売り場での試食を担当する売り子の「流しのプロ」という不思議な職業の女性が主人公の「帯同馬」、短編集の最初の1編ですが、彼女の特技というか特徴は「あたかも彼女がそこに立っていることなど誰も気付かないくらい売り場に溶け込めること」。
これは、視線過敏症の裏返しですね。
というのも、売り子の彼女が獲得した技術は、年齢や時間帯によって多種多様な客の視線、動線、趣向などを徹底的に研究した賜物であるはずだからです。


自分の話ですが(いや、最初から全部そうといえばそうですが)、連想のリンクはやはり直近に読んだもの同士に強くはたらくのだなと、本記事を書きながら再確認しました。
これを逆から見れば、過去に読んだ本同士を連想でつなげることがいかに難しいかを思い知らされもするわけです。
…なかなか、僕が構想している「本の仕事」は高難度だと思う次第です。


ちなみに、「帯同馬」の主人公の女性に、読んでいて僕はかなり好感を持ちました。
ハルキ小説に登場する女性と違って(それは非現実的であるからこその魅力なのですが)、彼女にはどこか「現実的な魅力」があります。
そして、いくつか前の記事に書いた「沈黙を語ること」についてのヒントが、ここにあるように感じました。
このこと(後者ですが)は、いずれ書くつもりです。
 
 × × ×

いつも彼らはどこかに

いつも彼らはどこかに