human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「百季夜行」、あるいは人形と踊る人形師

けれども、多くの問題は、そもそもその観測点の不同定を棚上げにして扱われている。ニューラルの変幻さを、一瞬だけネガフィルムのように反転固定した仮定の基に、ただ「こうでなければならない」という道筋を引く。それがロゴスだ。
したがって、疑うべき主体とは、すなわち架空のロゴス、その空論によって空回りする風車か、あるいは、紡がれると錯覚させ、実は解け伸び、空間に放射される一筋の糸か。その糸の細さといえば、なにものも結ぶことなく、ただ分断を誘うのみ。

疑うべきものと、認めるべきものは、同じメカニズムのロゴスにちがいない。疑っているつもりになっているだけで、緩やかな存在を認めていることに等しい。(…)

ロゴスには、常に矛盾が包含されることくらい、言葉が生まれるまえからわかっていた。植物も動物も、あるいは微生物さえも、その揺らぎを持っている。その偶然、その変異を内在している。そもそも、そうでないものが存在しないのだから、これを矛盾と呼ぶことに矛盾がある。すなわち、ロゴスの成立が、最初から自身で反転しているということ。だから、ネガなのである。

「第13章 フォーハンドレッドシーズンズ」
森博嗣『赤目姫の潮解』

 混信は渾身にして、
 教会は境界にあり。

 × × ×

縁あって久しぶりに、恐らく十年近くぶりに読んだのですが、
まっったく内容を覚えていませんでした。
「ワケワカラン」という読後感だけは覚えていたんですが、
その初読時の印象もキレーに裏切られたというか。

いやー面白かったですね。

批評は書きたくなくて、
印象をなにか書きたいんですけど、
読了前にパッと(本記事の)タイトルを思いついて。

それだけ、のようですね。


保坂和志を連想することが何度かあったんですが、
視点の移動に類似したものがあって(速度と頻度は全然ちがいますが)、
エスエフか現実小説かの違いはまあどうでもいいんですが、
森博嗣の『赤目姫』は寓話というよりは童話なのに対し、
じゃあ保坂氏の(たぶん連想したのは)『この人の閾』は、
三人称私小説? 人間観察日誌?

 × × ×

小説のリアリティというものを考えたとき、
「リアルの基盤」をどこに置くか、という問題があります。
小説の筋書きが現実的なのか、小道具が、人物心理が現実的なのか、云々。
たぶん、「リアリズム小説」というジャンルが指す対象の中に、以上のものは含まれても、
メタフィクション(だったかな?)、
物語の中で物語の「枠組み」に言及する小説は含まれません。

たとえば、の例としてポップすぎるかもですが、
というかマンガですが、
忍たま乱太郎』(尼子騒兵衛)では、
忍たま達が敵の城に忍び込んだりしてピンチになると、
マンガの「コマ割り」をベリっと破って紙面の裏に逃げていったりします。

たとえばこういうのを、リアリズム小説(マンガですね)と呼ぶか?
まあ呼ばないでしょうね。
そして『忍たま』にリアリティはあるか?
と聞かれると、よくわからない。
面白いし、没入できるけれど、それとリアリティとはまた別のような気がする。
 
 
で、『赤目姫』ですが、まあ確信できるとまでは言いませんが、
登場人物が物語の「枠組み」に言及しているように読める場面がいくつもあって、
(今思うと、その枠とは「作者」のことなんですが、
 作者が必ずしも物語の外にいるとは限らない……)
それでいて、読んでいて僕は「リアリティ」を強く感じました。

それが面白いなと思って、
この面白さは初読時には確実に気付かなかったはずです。
(何せ「ワケワカランがいつか面白く読めるだろう」という悔しさの印象があったので)

いや、しかしそれが作品の面白さを理解したのかと言われれば、
他の読者に共感してもらえるような説明ができるかはよくわかりませんが、
そして今そのような説明が試みられている可能性もありますが、
それはさておき。
 
 
話を戻しまして、
僕は『赤目姫』のどこに「リアルの基盤」を感じたか、
ということをここで考えてみようと思います。

まず、「小説内部で完結する整合性」にはありません。
整合性がない、のではなく、その整合性にリアルを感じたわけではない。
 
読者が小説を読むこと、あるいは作者が小説を書くこと。
『赤目姫』には、明らかにこのプロセス(の感覚)が内包されています。

だから、この小説を読んでいて、
「小説を読むこと自体のリアリティ」を感じた、
と言ってもいいかもしれません。

これはどこか、自己言及的なところがある。
つまり、オープン・システム、開放系のフィードバック・ループ。

そして、その上記プロセスの、一部が強調されたり、減衰したり、
つまり、波がある。
(じっさい、ページの中に「波」があったりもする)

その、強調やら誇張やら、あるいはプロセス描写が安定しないこと、
それが計算されての描出かどうかは重要ではなくて(計算よりは気分だと思いますけど)、
それは小説世界の揺らぎでもあって、
これを別の見方をすれば、
小説世界の整合性が揺らいでいる、とも言える。
が、それもまた重要ではない。
 
面白いなと思うのは、
物語の読感が「揺らいでいる」と読者が感じる時に、
その原因が物語世界の側にだけあるとは限らない。
読者がその時、仕事のことや心配事で上の空で読んでいれば、
読者の散漫な集中力のせいで物語が「揺らぐ」ことだってある。

何が言いたいかというと、
まず、
読者が感じる物語のリアリティは、物語内部とは関係のないところにもある。
さらに、
その認識の裏側で起こりうる現象として、
読者側に起因するリアリティに、物語が介入することがある。
そして、
その現象の幸福な実現形態として、
読者の揺らぎと、物語の揺らぎが、波を重ねて「共振」することだってある。
 
僕がリアリティを感じたのは、ここなのではないかと思います。
これが、たとえば小説主人公への感情移入と異なるのは、
ワンムーブの一方通行ではない点です。
 
 
オープン・システムとは、つまりこういうことです。
 そのことを、書き手が意識できているか。
 そしてまた、読み手も意識できているか。
いずれかが欠けても、「オープン」にはなりません。

森博嗣はエッセイかインタビューかどこかで、
「すごいのは作者ではなく読者だ」
と言っていました。
彼は著作の帯などでよく「天才」と書かれている(書くのは出版側でしょう)けれど、
そんなことは関係なく、あれは純粋な、
小説の成り立ちについての言及ではないかと思います。