human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『アフターダーク』と「しんみりカオス」

昨日『アフターダーク』(村上春樹)を読了しました。
何か書いておきたいと思ったので思いつくままに書きます。


僕は学部時代にジャズ研にいて、カーティス・フラーのアルバム「blues ette」も持っていて、「fiver spot after the dark」と言われてすぐメロディを思い出しました(最初の4小節は「♪ったらーららったったーらーら」×2)。
この話はわりと序盤に出てきたはずで、そこを読んだ時に「"アフターダーク"ってこれか!」と、意味はよく分からないままただ自分が知っているというだけで嬉しさを感じたりしたのですが、たぶんそれだけではありません。
darkは夜であり闇であり、この小説はある一夜の物語であり、その一夜が明けるところで物語の幕が下りる。

つまり夜が明けたあとのことは何も書いていなくて、しかしこの小説のタイトルはafter darkなのです。


この小説の終わり方はとても好きで、「物語が完結して現実に引き戻される」というのではなく(と書くとネガティブに見えますが、もちろんそういう終わり方の中には、読み終えてスッキリして意気揚々と生活に戻れる終わり方もあります)、物語が終わって(小説を読み終え)、本を手元に置き、立ち上がって、水を飲んだり、食器を洗ったりする…という流れの間に、滞りがないのです。

なんというのか、読み終えた後に本のある場面を反芻したりするのですが、それはまだ物語の中に留まっていたいからするのではなく、既に僕は現実に腰を据えながらその場面を思い返しているのです。
かといって当然現実の生活と小説の中身がごっちゃになるわけでもなくて…(夢の内容と現実生活とを混同することはごくたまにあります。他人にボロを出すには至っていませんが)。

たぶん、性質としてハルキ小説全般に言えるのですが、中でも特に『アフターダーク』は「結局明らかにされない伏線(のように見えるもの)」が多いことからよく当てはまるように思えますが、それは、小説中のある場面や登場人物のある言葉が、(読み手の)現実の生活のなかで初めて意味を持ってくる(つまりその意味というのは読み手固有の意味なのですが)ということで、そのことを分かっているからこそ小説と生活が地続きに思えるのかもしれません。

あるいは、僕にとっては読書が生活であり、すなわち「併読リンク」(ある本を読んでいて、最近読み終えたあるいは読中の別の本との何かしらの繋がりを見つけること)も生活に含まれていて、ハルキ小説はこの併読リンクの発生率が高いということなのかもしれません。

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次に読むハルキ本はエッセイ(「村上朝日堂」シリーズとか、『翻訳夜話』とか色々溜まってます)か、小説ならいよいよ『1Q84』かですかね…今さらですけど。

(そうそう、『アフターダーク』の前には『夜のくもざる』という超短編集を寝しなに読んでいたんですが、所々に爆笑レベルというか我慢しても顔が引きつる短編がいくつもあって時々寝付けなくなったりしました(「ビール」とか「ペルソナ」とか)。あ、ちなみにですけどこれ読んでる間の脳内BGMは黒魔さんのゆめにつぶされるでした。『太陽の塔』(森見登美彦)を一昨年の年末に読んだ時にも使ったBGMで、今この曲を聴いた時の僕の頭の中は混沌としていますが何せこの曲調なので「しんみりとカオス」なのです。「ゆめにっき」(というゲーム?)を知っていればまた曲の印象が変わるかもですが、僕は知りません)。

まあ、来年の話ですね。