human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「未来を予告するかすかな物音」について

 
サハラの辺り一面の砂漠にぽつんと立つ、哨所(郵便機の発着を成立させる最低限の施設)にて。

ところが今度は、緑いろの蝶が一羽飛ぶ。蜉蝣が二羽、ぼくのランプに突き当る。するとまたしても、ぼくは曖昧な気持に襲われる。それは喜びかもしれない。あるいは不安かもしれない。とにかくそれは心の奥から来ることは確かだが、まだ漠然としていて、わずかに口を動かすに過ぎない。だれかが、遠くでぼくに話しかけているのだ。
(…)
奥地のオアシスから、百キロ以上も離れたこんな所へ、蜉蝣が何をしに来ているのだろうか? 砂浜へ打ち上げられたわずかの漂流物が、沖に台風があばれていることを証拠立てる。同じように、これらの昆虫がぼくに教える、熱砂の嵐が、東からの嵐が、遠い椰子の林からその緑の蝶を追い出した嵐が、近づきつつあると。
(…)
いまぼくを原始的な悦びで満たしてくれているのは、天地間の秘密の言葉を、言葉半ばで自分が理解した点だ。未来がすべて、かすかな物音としてだけ予告される原始人のように、ある一つの足跡を自分が嗅ぎつけた点だ、この天地の怒りを一羽の蜉蝣の羽ばたきに読み取った点だ
「砂漠で」p.103-104(サン=テグジュペリ『人間の土地』)


抜粋の中の下線部(後者)を読んで、毎週土曜の散歩のある場面を連想しました。


農大のすぐそばに学生用のマンションと民家が並ぶ閑静な区域があって、僕がいつも歩く道に面したある家には、通りかかると時々吠える犬がいます。
いつもではないので最初の頃はよく油断していて、考え事をしていたり歩行に集中して頭が空っぽだったりする時に(つまり「いつも」ですが)いきなり吠えられるたびに寿命が縮む思いをしていました。

それが慣れてくると、というか「ここは(寿命が縮むという意味で)危険ポイントだな」と通りかかる前に思い出すと、犬が吠える前の初動を察知しようと身体の感度を上げるようになり、ジャラッという首輪に繫がれた鎖の音や肉球がコンクリートを踏みしめる音、しまいには威嚇が強く喉を震わせる前のわずかな息の音を判別できるようになりました(最後は多分に気のせいかもしれませんが、初動の音が何も聞こえなくとも驚かなくなったのは単なる記憶の作用というだけでなく無意識レベルの察知が行われていると考えた方が武道的には面白いです)。


その地点とは別の、同じく農大のそばで畑が広がり民家がまばらな道に面するある家には、人感センサで門と玄関の間を照らすスポットライトがありました。
不意に明るくなるのも多少は驚きますが、すぐに慣れたのでその時はあまり気にしませんでした。

それがたしか一月ほど前から、スポットライトと同時に録音された犬の吠え声が鳴るようになったのです。

これに最初はもの凄くびっくりして、センサとスピーカの連動というからくりの理解では払拭できない言い知れぬ気味の悪さが湧き上がり、そこで驚かされて数分くらいで「来週からは歩く道を変えよう」と決心しました。
とはいえ習慣とは簡単に変えられるものでも固執してしまう身体作用であって、頭の方で妥協を考えて道は結局変えませんでした。

妥協案の一つ目は手っ取り早く「センサに検知されないように歩けばいい」と思ったのですが、その道の家とは反対側の隅っこを歩いても検知されたのでこの策はあえなく失敗しました。
二つ目は考えたそばから現実味がないと分かっていながら何度も試してはみるのですが(今も継続中)、上の犬の話と同じく「初動を察知する」というもので、これは具体的にはセンサが検知してスピーカに電流が流れる気配とか、スピーカが再生を始めてから吠え声を鳴らすまでの「チリチリ」という音(昔の録再ラジカセならはっきり聞こえたものですが、録音再生技術も随分発達したものですね)などが想定できますが、無音の室内空間ならまだしも(電流が流れる気配はさすがに無理か…あでもちょっと違うかもですが、寮の室内にいてインターホンの待機音は聞き取ることができます)、夜とはいえ車の音や民家内の生活音が響く屋外では相当厳しいと言わざるを得ません。


で、冒頭の引用からこのことを連想して思ったのは、「未来がすべて、かすかな物音としてだけ予告される原始人」がその物音を察知する「悦び」は確かにあるのかもしれない、ということでした。
それは意味以前の気持ちの昂りかもしれないし、未知によって増幅される来るべき危機あるいは不安を特定することで小さく留めおけたという安堵かもしれない。

そのどちらも「感動」(ここでこの表現を使ってみるのも『人間の土地』の影響ですが、「動を感ずる」というこの言葉は、外環境の変化(動き)を感じるとも、内なる身体状況の変化を感じるともとれます。そして主体は人に限定されない)だと思って、しかしスピーカから再生される吠え声に驚くのは「感動」ではないと思ってしまうのは、この外環境の変化に生命感が極めて乏しいからで、

ここでいう生命感とは、”未来を予告するかすかな物音”のことだと気付きました

ただぼくらは、よく知っていた。そのつぎの何秒かのあいだに、サハラは息を吸いこんで、第二の息吹を吐き出すはずだと。そして三分とたたないうちに、ぼくらの格納庫の通風筒は感動しだすはずだった。そして十分とたたないうちに、砂が天を満たすはずだった。やがてしばらくしたら、ぼくらは、この火の中、砂漠が吐き出す炎の中で、離陸するはずだった。
同上 p.104