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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Craftsmanship for Sensitivity

  
セネットの『クラフトマン』からの抜粋です。

CADはまた、設計士が、実物のサイズとはまったく異なるものとしての、縮尺(スケール)について考えるのを妨げる。縮尺には比率=バランス(プロポーション)についての判断が含まれている。(…)たしかにディスプレイ上の物体は、それが、例えば現場にいる誰かの見晴らしのきく地点から見られているいるように、自在に操作されうるのだが、CADがしばしば誤用されるのは、このときに外ならない。つまりディスプレイ上に現れているものは、ありえないほどに首尾一貫しており、実際の光景ではけっしてありえないほど統一的に構成されているのである。

「第一章 悩めるクラフツマン」p.82
リチャード・セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』高橋勇夫訳、筑摩書房、2016

 
 ”縮尺は実物のサイズとは異なる”
 ”縮尺にはバランスについての判断が含まれる”

このあたりの表現について、
セネットが言おうとしていることと正確に一致するかは別として、
僕自身の経験を改めて照らすものがありました。


縮尺とは、製図用語としては、図面と実物の大きさの比を表します。

 コーヒーカップの高さが100mmで、
 カップの正面図の高さが同じく100mmならば、
 この図面=正面図の縮尺は1:1である。

一方、セネットのいう縮尺に含まれるという「バランスについての判断」、
これは、(1)図面内の物体間の大きさの比率に対する感覚、それから、
(2)図面の物体(群)とそれと対応する実物(群)の対応感覚、を指しているはずですが、
引用した箇所の最後の一文を考慮すると、
(3)(風景内の)実物間のバランス感覚、も含めてよいと思います。

 ”ディスプレイ上に現れているものは、(…)実際の光景では
  けっしてありえないほど統一的に構成されている"

これは一見すると変なことを言っているようですが、
ディスプレイ上の図面データは、その物体間の大きさの比は実物と等しいが、
「実際の光景」つまり実物を目前に人が感じる大きさの比とは必ずしも一致しない、
という意味に僕は読みました。

写実主義が最も実物っぽい描写である、という価値観は
 客観主義のバイアスがかかった主観がなすものである」
といった教訓をここから導くことができますが、
ここからまた別の(自己言及的な)連想が働きました。


最もローテクな状況を想定してもらうとして、
「何かを絵に描こう」と思った人が、その絵を描いて、
さて、その絵かきは、人にその絵を「どう見て欲しい」と思うか?

りんごの絵なら、それを見て「実際のりんご」を感じて欲しい。
基本はそのはずで、間違っても、
「実際のりんごを見て、それを描いている絵かきの画用紙の絵」
を感じて欲しいとは思わない。
それは、感じるまでもなく「そのもの」だからです。

セネットの、クラフトの現場における「テクノロジーの誤用」に対する懸念は、
このことではないか、と思います。
ある目的を達成するための、手段としてのテクノロジーが発達する。
その発達が、人間のクラフツマンシップの発揮を妨げる(不必要にする)とき、
手段であったはずのテクノロジーが、結果を勝手に導き出すことで、目的化する。


いや、文脈がとんでいるので、あいだを繋ぎますが、
冒頭の引用文を読んだ時に、僕は最近読んだマンガのことを連想しました。

あまり実際を知らないので想像で言うのですが、
多作の漫画家の中には何人ものアシスタントと共同作業をしていて、
それは様々な分業の形式をとるはずで、
枠線、人物、風景、吹き出しと発言内容、といった分担があれば、
人物描写の行程も、粗い描線、全身の詳細化、目の描き入れ等に分割する、
ということもあるかもしれません。

昨日読んでいたマンガで、ストーリーを追いながら読んでいて、
ふと目に付いた一コマに、ストーリーとは関係のない想像が働いたのですが、
そのコマでは、斜め横向きの人物の肩上がアップで描かれていて、
その顔における片目の位置が少しおかしかったのです。
人物描写の目がちょっと変だ、という違和感は、
「作画の乱れ」(=同じ人がコマによって別人物に見える)ではなく、
「作画の分業」という連想を呼んだのでした。
(この2つの違いについては、別文脈で掘り下げる余地があります)

つまり、ここでりんごの例と対応するのですが、
僕はマンガを読んでいて、ある箇所で、
「マンガが描く物語そのもの」ではなく、
「マンガが描かれている現場」を想像したということです。

この出来事は、ほんらい、漫画家が意図するところではないはずです。

が、セネットの文章を読むうちに考えさせられたのは、
どうも「そう」とばかりは言えないのではないか、
ということです。


「楽屋ネタ」というのがありますね。
バラエティ番組がテレビにおける発祥だと今勝手に考えていますが、
今ではドラマやPVのクリエーション番組や、
テレビクルーを映像内に映し込む旅番組など、色々あります。

「テレビとは画面上にひとつの幻想を作り上げることで、
 その幻想のリアリティは舞台裏を見せない(想像させない)ことで担保される」

この常識は、リアルの舞台では残っていても、もはやテレビにはないのでしょう。
その昔、「アイドルは"大"をしない」(トイレのこと)という伝説があったそうですが、
それはアイドルが幻想としてリアリティを持っていた時代のことで、
今は「アイドルだって人間だ」を再確認できることにテレビのリアリティがある。

いや、上と同じ話かもしれない、と思って書いてみたんですが、
どうでしょう。
「楽屋ネタは飽きられたら先がない」といつか聞いた気もしますが、
どうなのでしょう。


「楽屋ネタ」の話は、
「幻想の製作現場という手段」を「目的」にしてしまった一例です。
マンガを読んでいる間の作画現場の想像は、
漫画家が意図してそうしているわけではないのですが、
手段の目的化という話に合わせて持ってくれば、
マンガのあとがきにある「このマンガはこうしてできた」という章がそれです。

あるいは、カバー裏に漫画家の顔写真…はほぼあり得なくて、
なんだかよくわからない写真か絵か、著者近影という名の似顔絵がありますが、
そうだ、新聞に漫画家が(なんかの受賞とかで)記事になる時に、
そこは新聞側の規範なのか顔写真を載せている人がいますが、
そこでも似顔絵などで通す漫画家もいますね。

ここにある表現者側の認識は、
「作者の顔写真が作品の世界観に影響を与える」というものです。
その影響の良し悪しではなく、
「舞台裏は物語に対しては異物である」という感覚。


…話を戻しますが、
最初のほうで「自己言及的」連想、と書いた部分にやっと来ました。
自己言及、という言い方は少し妙なんですが、要は、
現象の相互作用は一往復で終わりではなく相互に影響を与え続ける
という話です。

 分析的思考、またそれを表現するための文章化というのは、
 ダイナミックな過程をスタティックに(かつ線的に)置き換えるもので、
 「現象の相互作用」と言う時に、端的にいえば、それが一往復で終わってしまう。

 「ああすればこうなる」という因果の繋がりは、その連鎖はいくらでも続けられるが、
 その因果を想定する主体本人の変化を、その連鎖に織り込むことができない。
 なぜなら、主体が途中で変われば、後半で言うことが前半とは違ってくるから。
 でも、現象のダイナミクスとは、そもそも「そういうもの」です。

リアリティをなんとか言葉にしようとして、
でも必ずこぼれ落ちてしまうものがある。
言い足りない、と思えば言い過ぎる。
どっちだ、と思う間に自分は変化している。
必然的に起こる、表現における不全感。

これの対処法は原理的に2つあって、
表現者が作品の向上のために追求すべきは、言うまでもなく前者です。

 ひとつは「言葉をリアリティに近づける努力をする」、
 他方には「リアリティを言葉に近づける努力をする」。

機械の誤用、楽屋ネタ志向、
また、今思いついた『◯◯(今話題の若い棋士の名前)の作り方』といった本のタイトル、
(中身は知りませんが、おそらく伝記的な内容の本にそういうタイトルをつける発想の方)
も含めてもいいかもしれませんが、これらはどれも、
努力の方向性をいえば後者にあたるのだと思います。

あるいは、消費者とは本質的に後者を追求する存在なのかもしれません。


…ええと、「現象の相互作用」の話をしようとしていました。

養老孟司が、2000年前後の著書で、
「一緒に住む家族が幽霊みたいに思える」という学生の話に対して、
テレビばっか観て育ちゃそうなるだろう、といったことを書いていました。
 テレビの中の人物は一方的に喋る、観ているこちらに関係なく。
 テレビの中で爆発が起こっても、瓦礫の破片はこちらに飛んでこない。
 身近に自分とは関係を持たない秩序があって、
 その秩序の時間は、自分を巻き込まず、自分の影響を受けずに流れていく。

世の中(=身の回りの秩序)とは「そう」である、と思って育てば、
(例えば、家族との会話よりもテレビを観る時間が圧倒的に長い幼少期を経る等)
自分が呟いた言葉に返事がくることを「気持ち悪い」と感じるようになる。
いや、なってもおかしくない。

また、同じ著書の中には、
若い時に非常に苦労して大成した資産家が、
今の若い人に苦労させないために惜しまず教育支援をする、
というニュースを聞いて「なんでそんなことするんだ」と怒り、
養老氏の奥さんに怪訝な顔をされた、という話もありました。
つまり、その資産家の善意を疑うわけではないが、
 彼は自分の「非常に苦労した過去」を果たして肯定しているのかどうか、
 その過去があったから今の彼があることを彼自身がどう考えているのか、
 彼の「若者に苦労をさせない善意」はそのどういう答えになっているか、

といったことに対する自覚に、養老氏は疑問を感じたということでした。

教育の問題は非常に難しくて、
特に世の中(技術革新や生活水準)が大きく変わる時代には、
古くから定常が良しとされた教育観も変容を被ることになる。
そういう変化の時代に、慎重に考えなければいけないのが、
世代をまたがる「現象の相互作用」についてです。

…いや、教育の話は収拾つかないのでやめましょう。
タイトルの話に戻ります。


 ”縮尺にはバランスについての判断が含まれる”

冒頭に引いた、セネットの文章の一節です。

「バランスの判断」、これは感覚的なものです。
手で建築図面を描かずにCADに頼ると、こうした感覚が衰える。
セネットは、引用した節でこう懸念しています。

ここでは建築家、設計者のバランス感覚を問題にしていますが、
無論、この影響は波及していきます。

CADで描いた「ありえないほど首尾一貫した」絵を、
家を建てようとする人や、あるいは展覧会の客などが、
「そういうものだ(=こういうものにリアリティがある)」と思えば、
まさに、そうなる。
(「リアリティの意味」という言葉上のことだけでなく、
 リアリティという言葉が本人の中で指示する感覚的なものまで影響を受ける)

ペンタブと描画ツールで隙なく整然と描かれたマンガを当然と読んでいれば、
漫画家が一人で全部描いた、筆致がありありと浮かぶマンガが「別物」に見える。


これらは、感受性の鈍磨とは言い切れないのかもしれません。
感受性の方向が変わっただけだ、と。
でも、僕はここに「それっぽさ主義」とも言える危ういものを感じます。

自分の感覚がまずあって、
対象がその感覚に対してどう響くか、
ではなく、
自分の感覚の「外部」に確固としたなにかがあって、
その「外部の基準」に対象がどれだけ忠実であるかを自分の感覚よりも優先させる。

感覚の判断基準が「外部」にあって、
でもそれを「内部」のことである、と読み替える、
無自覚的な、自身の感覚への裏切り。


クラフツマンシップそのものについては本記事で掘り下げられませんでしたが、
(それはセネットの本全体にいや(ではないけど)というほど充溢しています)
クラフツマンシップはこの「自身の感覚」を鋭敏にしておくために欠かせず、
また、それはクラフトの(製作者としての)現場だけでなく、あらゆる場面で、
マンガを読むでも、あらゆる消費活動においても発揮できる作法です。

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