human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

想像力を派生力に/希望のイコンとしての「パンドラの空箱」

ずっと前からいつ読もうかと思っていた、
セネットの『クラフツマン』をようやく読み始めました。

 僕が工学部で、専門科目が本格的に始まった三回生の頃、
 大学のキャンパスも移って工学部図書館に出入りするようになって、
 読みたい特定の本としてその図書館を探した記憶があるのは、
 クーン、ポパー、ファイヤアーベントといった「科学哲学」の範疇の著作で、
 彼らは当時の僕がもっていた疑問に答えてくれるようであったのですが、
 その時に念頭にあった問題意識とは今思えば正確には「ものづくりの哲学」
 統計力学流体力学やら設計工学等々、各論として意義も実践もわかるが、
 「総じてそれらを学ぶ意味は何か」という疑問には答えてくれなくて、
 しかしそれは工学部生個人の視点で見れば学部の志望動機のようなもので、
 「その答えを見つけたから今君は大学のここにいるのだろう?」という前提があり、
 そして当然ながら(胸張って言うことではないが)大学全入時代に一定数は必ずいる、
 「デモシカ学生」の一人であった僕がその前提を満足しているはずもなく、
 だからこそ当時三回生の時に他学部(文・法・経済など)への転部に悩んだり、
 院に行かずにLECに通って弁理士の資格をとろうと思ったり、
 (結局は周りに(中途半端に)流されて別の大学院へ進学したのですが)
 そうして「自分のことを掘り下げて考える」ことを知らずに血迷い続けていた、
 学生時代の自分をふと思い出したのはなぜかというと、

 リチャード・セネットこそが、
 工学部に在籍する当時の自分を勇気づける本だったのではないか、
 と思ったからです。

 当時これを読んでいれば、
 意気揚々と大手メーカーに就職するか大学に残って研究職をやるか、
 していたかもしれませんが、
 今ほど(いわば「文系」の)本を読むこともなかったろうと思います。

 そのどちらでも、
 それなりによかったのだろうし、
 どちらにしても、
 「自分が選ばなかった道」への想像の芽は摘まないようにしたい。


いや、本論に入る前に逸れまくってますが、

過去の自分にあった人生の岐路を回想することには、
現状の不満とか、その「自分が選ばなかった道」に対する未練がくっついたりしていて、
回想の意味は(誰かと昔話などしていれば特に)最終的にそれらに回収されてしまうのですが、
(「昔はよかった」は容易に「今は(あんまり)よくない」に裏返る)
それは、その方が話が単純だからで、話を単純にしたいからそうなるのであって、
もちろんそれだけではないはずです。

とにかく、なるべく多くの状況で「想像力を抑圧したくない」と思っている僕は、
一人で回想する時にその安易な結論でそれを閉じることは「想像力の抑圧」になると考えます。

というのも、「昔はよかった」の回想に浸るあいだは気持ちとして充実するとはいえ、
その充実の大きさは「でも今は…」と戻ってくる時のダメージに比例し、
従って回想すること自体が充実と反動のアンビバレントに直面して、
「とおりいっぺん(いつも通り、予定調和)の回想」に留まってしまい、
そこから(たとえば、自分が選ばなかった道「の先」といった)羽を広げることがないからです。

なので、回想に通俗的でない価値というか方向性を持たせたい、
ということを前に考えたことがあって、
今ちょうどそれを思い出したので脇道で書いているのですが、
回想は「系譜学的思考」の私的バージョンである、という認識が一つ、
(「系譜学的思考」とは、歴史の転換期を起点に「ありえた別の未来」を想像すること)
もう一つ、「個人的な経験にリアリティを支えられた私小説」というのがある。

小説はフィクションであって、そのリアリティは主に想像力が担い手となります。
小説中の言葉の一つひとつを、文脈と、その言葉に関する自分の経験を元手に想像を膨らませる。
だから、小説で自分の経験が活きるのは、文脈ではなく言葉(単語)のレベルです。
あくまで単純化してのことですが…

一方で、自分の過去の回想というのは、
そのストーリーの始まりに自分の(過去のある時点の)経験があります。
つまり、自分の経験を文脈レベルで活かして、想像を膨らませるのが回想です

だから過去の回想が小説よりリアリティを持つのですが、
いやこの認識自体は言われずとも実感として多くの人が持っているはずで、
けれど今ここで言おうとしている大事なことは、
「自分自身の回想を小説の一種として考える」という認識のほうの意味です。

過去の経験の回想の「元手」を、
自分に手が届きやすいもの(過去なので実際は無理だがそう思ってしまう)ではなく、
想像の素材として、特にビビッドなリアリティを備えたものとして捉える。

想像のリアリティを、「没入感」ではなく「派生力」に投入する、
と言い換えてもいい。

これは懐古が「温故知新」となり、未知の新しいものを生み出すための認識です。

 × × ×

本題です。

『クラフツマン』、期待通りのセネット、
飛ばし読みでなく、噛み締めたくなる文章が続いて、
これまた読了に時間がかかりそうで、
それは良きと思ってぼちぼち読み進めますが、
ちょっと考えたい、というか、
近頃考えていたことと繋げて言葉にしておきたい箇所に出会いました。

最近何度か書いてきた、マリオン『存在なき神」との関連です。


ギリシャ神話の「パンドラの箱」についての記述があって、
その神話の具体的な内容を(『クラフツマン』の序章で)さっき初めて知ったのですが、
簡単にその内容に触れると、

 パンドラというのは「すべてを与えられた者」という意味で、
 プロメテウスが天界から火を盗んで人間界に与えた罰として、
 ゼウスが人間界(プロメテウスの弟?)に贈った初めての女性の名前だそうです。
 「パンドラの箱」というのは、パンドラと一緒に人間界に贈られた箱のことで、
 「ゼウスから贈られた箱は開けるな」と警告されていたにも関わらず、
 パンドラが魅力的な女性だかなんだかでプロメテウスの弟はそれを開けてしまって、
 病気だとか、憎悪だとか、ネガティブなものがたくさん飛び出してしまう。

アダムとイブの「知恵のりんご」と似たような話ですが、
その、パンドラの箱から色々飛び出た「その後に残ったもの」のことを知って、
僕は「へえ!」と思って、想像がいろいろと膨らみました。

そこだけ引用します。

そして、ある日パンドラ(エピメテウス[←あ、これがプロメテウスの弟です]という説もある)はついに持ち前の「好奇心」に負けて箱を開けてしまう。するとそこから痛風、疾病、死、貧困、嫉妬、怨恨、復讐、悲嘆などさまざまな災いが飛び出し、パンドラは慌ててその箱を閉じるが、「希望(「前兆」ともいわれる)」を除いてすべて飛び去ってしまっていた。

「序論 自分自身の製作者としての人間」p.21
リチャード・セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』
太字部は引用者

この箱には、あらゆる災いの種が詰まっている。
開ければ最後、取り返しがつかない。
パンドラの箱」という慣用句には、そのようなニュアンスがあると思います。
引用文もそのように読めます。

 パンドラは慌てて箱を閉じるが、
 時既に遅し、
 災いの種は一つ残らず飛び出してしまった。

僕が知らなかったのは、事前にちょっと触れましたが、
「その箱には希望(前兆)だけが残っていた」ということです。


開けてはならない、パンドラの箱
日本昔話でいえば、竜宮城のお土産である玉手箱を連想します。
要するに同じだろ、と思っている人もいるかもしれません。

この(通俗版の?)「浦島太郎」から考えてみましょう。

玉手箱を開ける。
浦島太郎は浦島翁になる。
さて、この時、いやこの後
玉手箱はどうなったか?

蓋を開けると、煙がもうもう。
箱の中は空っぽ。
この後、玉手箱がどう扱われたかといえば、
手にとって振るわけでなく、覗き込んで詳らかに検討するわけでなく、
放置されたでしょう。
あるいは、造りや飾りが綺麗だとかで、
家に持ち帰り、物入れくらいにはなったかもしれない。


僕はギリシャ神話について詳しく考えたことはありませんが、
ざっくりしたイメージとして、
パンドラの箱もこのようなものだと思っていました。

つまり、
蓋を開けて、あらゆる災いが飛び出し、
人々はその災いへの対処で大わらわ、
残されたパンドラの箱には、誰も見向きもしない。
なぜなら、全てが出払って、そこは空っぽだから、と。

しかし、
そうではなく、「希望」がそこには残っていた。

だからなんなのか?

 × × ×

パンドラの箱」は、メタファーとしてよく用いられます。
たとえば、現代では科学技術に対して、その比喩を使う。
原子力が「プロメテウスの火」だというのと、同じ意味で。

そのメタファーを念頭に考えを進めるとして、

遺伝子工学原子力、戦争兵器、といった、
人類に、文明の発展と同時に滅亡の種をもたらした技術、
これらは「パンドラの箱から飛び出した災い」の具体的な一つひとつです。
技術者倫理、科学哲学といったものは、
これらに対するフェールセーフ的な学問です。

さて、
科学技術がパンドラの箱だとするなら、
時間を特定すればその箱は「開封前」あるいは「開封中」のはずですが、

では、
「災いが出払った後の空箱」は、なんのメタファーなのか?

…わかりません。
今思いついた問いで、その答えを今は思いつきません。
これは宿題にして、方向性を変えます。


先に触れたことを言い換えたものですが、
技術者倫理や科学哲学は、
メタファーでいう「パンドラの箱の中身」を扱う対象としています

ふと僕が思ったのは、これに対して、
「ものづくりの哲学」
「工作人(ホモ・ファーベル)」の精神を掘り下げる哲学、
と言ってもいいのですが、
こちらは「パンドラの箱そのもの」を対象としているのではないか。

そこに何があるのかといえば、
ギリシャ神話のいう「希望(前兆)」がある。

つまり、「ものづくりの哲学」とは、
「ものづくりの希望に関する哲学」であって、
科学技術が文明の盛衰を左右する規模に膨らんだ現代ではそれは、
「人類の希望に関する哲学」でもある

 × × ×

ここで、やっとというか、
話のつながりがあるかは(書いてみるまで)よくわからないんですが、
タイトルの「希望のイコン」の話に移ります。

 箱から災いが飛び出し、
 パンドラが蓋を閉めるも間に合わず、
 「希望」以外のものすべてはそこから飛び去った。

神話の一節、この表現で読めば、
蓋はこの時閉じられたまま、二度と開けられないともとれる。
残った中身も、そして箱自体も、
多くの災いを生み出した元凶として忌み嫌われ、遠ざけられる。

しかし、そこには希望がある。
どういうことか。

希望は、普段遣いの目では見えない。
災いの多様さと規模に隠れて、存在すら認識されない。
かかりきりになる目の前のことが多すぎて、その出自を辿れない。

あるいは、箱に目を付ける者が、まれに現れる。
また、禍々しい封印を解き、その蓋を再び開ける者が。
そして、(知ってはいたが)中は空である
内容物が全て出払えば、箱の中には何も残らない。
合理的精神も要さない、日常の真理。

しかし、そこには希望がある。
どういうことか。(二度目)


「パンドラの空箱」が、イコンとして存在し、
そのイコンの指し示すものが希望である。


『存在なき神』の内容を今思い出しているのですが、
「イコンと偶像」という一節(どころではなかったが)の中にあった記述によれば、

イコンとは、「見る者に、そのものでないものを志向させ続けるもの」である
だから、イコンは意味ではない、意味を持たない。
イコンと、何かの対象とが、一対一に結びついているわけではない。
ただ、イコンは、それをまなざす者に、「なにか」を志向させる。
永遠にそれにたどり着けないことを知っていながらも求めさせる「なにか」を。

偶像は、イコンと同様に「見る者にそのものでないものを志向させる」が、
その「そのものでないもの」は固定されたある一つの「なにか」であり、
その固定対象は、見る者の志向(願望)が投影されたものである。
だから、偶像をまなざす者は、そのまなざしが固着する、居着く。

イコンへのまなざしは、そうではなく、
いわば「安定しないことを本望とする」ようなまなざしである…

このへんでやめますが、
マリオンは「神」を「偶像でもイコンでもないもの」として考えていました。
というのも、イコンは機能としては「神」でも、仮想的存在だからです


話を戻しますが…
セネットのギリシャ神話紹介文を読んでいて、
「パンドラの空箱」が希望のイコンである、
という発想を、なぜかしら抱きました。

本記事ではこの発想を掘り下げられませんでしたが…

「そうであればいい(面白い)」という知的願望かもしれませんが、
同時に、これを日常生活の思想として掲げておくのもいい、と思いました。

 × × ×

あらゆる災いが飛び出し切って、あとに残るのが「希望」であること。
その「希望」は、災いに目を奪われていては、見えないこと。

そして、
「パンドラの空箱」が何のメタファーであるか?
この疑問を、念頭に置いておくこと。


結論というには、何が何だかわかりませんが、
僕の中で、これは大事なことではないか、という認識に至りました。

セネットの『クラフツマン』は、ぼちぼち、じっくり読んでいきます。