human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

遡創造と不確定性原理

『根をもつこと』を返却した日に、もともと書架の傍に並んでいた、
重力と恩寵』を借りました。

重力と恩寵

重力と恩寵

断章の形式で書かれていて、
一つひとつは短く、一息で読めますが、難しい。
使われる言葉は難しくないが、
断章にはその短さとは比較に絶する意味を含む重さがある。

何度も読み返しながら、立ち止まって考えるよりは、
なにか共鳴すると思われる断章をリンクさせることで、
理解が進むような手応えを感じています。

 愛する人が私の期待を裏切る。私は彼に手紙を書いた。私が彼にかわって心のなかで考えたとおりのことを、彼が返事してよこさないはずはない。
 人びとがわれわれに負うもの、それはその人びとが与えてくれるだろうとわれわれが想像しているものにほかならない。彼らにこの負債を免除してやろう。
 彼らがわれわれの想像の創りなしたものではないことを認めること、それは神の行為としての放棄を模倣することになる。
 私もまた、自分がそうであると想像しているものとは異なる。そのことを知ること、それがゆるすことである

「真空と埋め合わせ」p.23 (シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』渡辺義愛訳、春秋社、2009、[135.5/べ])

引用太字部「神の行為としての放棄」には註があり、「遡創造」の章を参照とあります。
この遡創造(原語は"decreation"でシモーヌ氏の造語)という言葉に惹かれたのですが、
当の章をあたってみると、とても難しい。
上述の通り、リンクする断章をいくつか探してみました。
各断章末の数字は、「遡創造」の章(p.60-74)のいくつ目かを指します。

 遡創造。ある創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること
 破壊。ある創られたものを、虚無のなかに移り行かせること。遡創造の不届きな代用品(エルザッツ)。[1]

 創造は愛の行為であり、絶えず繰り返されている。どんな瞬間においてもわれわれの生存は神のわれわれに対する愛である。しかし、神は自分自身しか愛することができない。われわれに対する神の愛は、われわれをとおして神自身に向けられた愛である。このように、われわれに存在を与える神は、われわれの心のなかの、存在しないことへの同意を愛する。[2,部分]

 放棄。創造における神の放棄に倣うこと。神は──ある意味で──すべてであることを放棄する。われわれはなにものかであることを放棄しなければならない。それだけがわれわれにできる唯一の善である。
 われわれは底のない樽である。底があることを理解しないでいるかぎりは。[6]

 われわれは自分が放棄するものしか所有しない。放棄しないものは手から逸れていく。この意味で、神の手を経ずになにかを所有することはできない。[9]

 神の現存。それは二通りに理解される。神は創造者である。それゆえ存在するすべてのもののなかに神は現存する──それらのものが存在するからには。一方、神が創られたものの協力を必要とする現存がある。それは創造者としてではなく、霊としての神の現存である。第一の現存は、創造の現存である。第二の現存は遡創造の現存である(われわれの助けなしにわれわれを創ったおかたは、われわれの同意なしにわれわれを救うことはないであろう アウグスティヌス)。[26]

 放棄することによる所有([6,9])。
 余談ですが、このことは一つ前の記事の非所有を連想させますが、
 たぶん「現実の非所有」ではなく「非現実の非所有」のほうです。

書こうと思ったことは、この章からの引用の一つ前、
最初の引用下線部を読んでいて思ったことについてです。

この下線部は、相手の存在をまずは留保なしに認めること、
価値観の違いがあってもそれは意味付ける以前に存在であること、
といった道徳的な内容に読めますが、たぶん、
その強度を「神の行為の模倣」によって担保すること、
その行為が「放棄」であることへの興味が、
「遡創造」の章を詳細に読ませたのだと思います。 

 × × ×

一つ目の引用下線部を読んで、僕はふと、
ハイゼンベルク不確定性原理」を連想しました。
前にちょっと触れたハイゼンベルクの自伝『部分と全体』をいま併読していて、
ちょうど昨日、この原理が生まれた時の出来事が書かれた部分を読みました。

確かにわれわれは、いつでも霜箱の中における電子の軌道は観測することができる、と軽々しく言ってきた。しかしひょっとすると、人が本当に観測するものはもっとわずかなことであるのかも知れない。(…)だから正しい設問は次のようなものに違いない。量子力学において次のような状態を表現することができるか? その状態では、一つの電子が、ある程度の不正確さでもって、ある一つの与えられた場所に存在し、また同時に、再びある程度の不正確さでもって、前もって与えられた速度の値を持ち、そしてこの不正確さの程度を、実験との間に困難をきたさないように、できるだけ小さくすることができるか? と。そのような状態を、数学的に表現することができて、そして不正確さについては、後に量子力学の不確定性関係と名づけられた、あの関係が成り立つことを研究所へ帰ってからのちょっとした計算が証明したのであった。場所と運動量(…)との不確定さの積は、プランクの作用量子より小さくはなり得ない。これでもって霜箱の中における観測と量子力学の数学との間の結びつきが遂に整えられた、と私には思えた。

「新世界への出発」p.127 (W.ハイゼンベルク『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房、1999、[289.3/ハ])

量子力学は大学で習いましたがその記憶はなく、
(ただ本書のような専門的記述の多い自伝を抵抗なく読める*1のは講義のおかげでしょう)
不確定性原理について覚えていることは、
観測する行為そのことが測定系に影響を与える」ということ。
顕微鏡でなにかを見る時に、電子線なりガンマ線なりを照射しますが、
測定対象がどんどん小さくなる(=解像度が高くなる)と、
その照射による測定対象の状態変化が観測結果に現れてくる。

この自伝には、科学研究と政治や歴史、宗教との関係の対話があり、
その中に「科学の進歩が宗教や哲学に新たな認識をもたらす」といった言葉がありました。
量子力学という学問の発展がまさにその一例で、
直観で理解できるニュートンの物理学から量子力学へは、
認識における大きな飛躍があります。
ただこの「新たな認識」とは、
科学が宗教や哲学に先んずるという意味ではなく、
科学が宗教の力を弱める(あるいは宗教に別の役割を与える)、
宗教や哲学が古くからもっていた思想に科学が後ろ盾を与える、
などの様々な影響のことをさします。

今書いた「後ろ盾を与える」が、
不確定性原理の遡創造に対する関係かもしれない、
という思考の端緒が、
後者から前者への連想に含まれていたかもしれない、
という思いがここまで書いてきた動機の一つですが…

宗教における言葉と科学における言葉とで、
同じ言葉(たとえば「存在」)でも指す意味が異なる、
ということについてのハイゼンベルクとボーアの対話が、
自伝の中に収録されています。
宗教の言葉は価値を表す一方、科学の言葉は事実を表す、
そうきっぱり割り切れればよいが(プランクはそういう人だったらしい)、
宗教の言葉が事実をも表していたとされる過去の宗教が、
その形を変えずに残っていることは科学の言葉によって力を削がれることと相関する。
そして宗教の「社会統治システム」の側面に長い歴史がある、
あるいは人間社会の本質が含まれている以上、
その側面において科学が宗教になることも避けられない。
(自伝には科学信奉者ディラックをパウリが警句的に茶化して諌める場面が出てきます)

何を書こうとしたのか、
もう書きたいことを書いたのか、
よくわからなくなりました。

この自伝は専門的な記述も多いですが、
量子力学という一つの学問分野の発展の中での、
非常に人間的な過程(内容の多くを研究者たちの対話や討論が占めます)を通じて、
科学の「プラクティカルでない側面」について多くを知ることができます。
この側面の認識は、日本で漠然と生活する限り、決して得られないと思います。

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

*1:専門用語に見覚えがあること、登場人物に馴染みがあること、など。本書には、定理や公式にその名が冠された人びと、たとえばパウリ、ボーア、プランクアインシュタインディラックなど数多く登場し、彼らがそれぞれ、彼ら自身の言葉で語ります。もちろんハイゼンベルクの頭の中で、ということですが。