human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ポストモダンとはなにか

 
ちょうど選書作業中に見つけたので引いておきます。

これを読むと、思想とは生き方なのだと改めて思います。

そして、「鎖書店」のコンセプトがポストモダン的であることに気付きました。

それで特に驚いたわけでもありませんが。

 ポストモダンとは、モダンの内部において、提示そのものの中から「提示しえないもの」をひきだすような何かのことだろう。不可能なものへのノスタルジアを共有させてくれる趣味のコンセンサスの上にたって良い形式からもたらされるなぐさめを、拒絶するもの。新しいさまざまな提示を、それを楽しむためにではなく、「提示しえないもの」がそこに存在するのだとより強く感じさせるために、たずね求めるもの。ポストモダンのアーティストや作家は、哲学者としての立場にたたされている。彼が書くテクスト、彼が作り上げる作品は、原則として、すでに存在する諸規則によって支配されてはおらず、そのテクスト、その作品に対して既知のカテゴリーを適用することによる、規定的判断によっては、判断されえない。それらの規則やそれらのカテゴリーこそ、その作品あるいはテクストが探し求めているものなのだ。したがって、アーティストならびに作家は、規則をもたないまま、「これからなしとげられてゆくであろうもの、そしてできあがってみてはじめてわかるもの」[フランス語時制の前未来]の諸規則を確立するために、仕事をするわけだ。(…)「ポストモダン」は、未来(post)完了(modo)のパラドクスにしたがって理解されるべきだろう。
 エセー(モンテーニュ)はポストモダンなもの、そしてフラグメント(「アテネーウム 断章」[シュレーゲル])はモダンなものであるように、ぼくには思われる。
 最後に、われわれがなすべきこととは「リアリティを提供すること」ではなく、着想可能であって提示されえないものについての、アリュージョン[暗示]を発明することなのだという点が、明確にされなくてはならない。

J.-F.リオタール『こどもたちに語るポストモダンちくま学芸文庫、1998 p.34-35
太字部は引用者