human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「怒り」と「憤り」、あわよくば『VIVO!』(瀬川藤子)の書評

3巻まである『VIVO!』(瀬川藤子)をさっき読了しました。
何度目かの再読ではあるんですが、最終章を呼んでいるあいだに意外なところに連想がつながったので何か書こうと思いました。

VIVO! 3巻

VIVO! 3巻

佐藤 (…)男の子がおかれてる状況は大変だなと思いました。魂の問題でいうと、いまの子どもたちを見ていて、芸術的な感動がなくなっているし、怒りはあるんだけど、憤る感情がなくなった
藤原 キレるっていうことはありますね。
佐藤 そう、キレるんだけど、あれは生理の爆発であって、魂の憤りじゃない。
藤原 結局、キレるというのは神経作用でしょう。憤りというのは理念の作用ですね。いいか、悪いかで判断していた時代というのが六〇年代から七〇年代にあって。そのつぎに、感覚で好きか、嫌いか、っていうのがあって。八〇年代以降は、パルス(衝動)なんですね。バリアがなくなって、神経へどんどんパルスが打ち込まれる。そういうものは、コマーシャルなんかがいちばん象徴してますよね。社会の仕組みのなかで、憤りじゃなく、キレるような脳にされてきている。だから、これ、資本主義といってしまえば、政治的な言い方になってつまらないんだけど、やっぱり、モノに包囲されている人間っていうのは、すごい世界に生きていると思いますよ。

「多くの子どもが酒鬼薔薇に共感するのはなぜか」(「分裂する魂と肉体 ×藤原新也」)p.42-43(『身体のダイアローグ 佐藤学対談集』、2002年初版、太郎次郎社)

身体のダイアローグ―佐藤学対談集

身体のダイアローグ―佐藤学対談集

この本も再読で、最初はいつだったかと過去のブログを検索すると、2011年の1月でした。
何度かの引っ越しがありましたが、そのたび身軽になっていった蔵書に居続けた、いわば「風雪に耐えて」残った大切な本です。
読み返すかどうかわからないが、本棚に並べ、その背表紙が目に入るだけで、大切なことが思い起こされる、そういう思いが自分の手元から離さなかった。
再読のきっかけは、本棚を眺めていてたまたま目に入ったという、意識のうえでは偶然としか言えないものです。
意識のうえでは。

 × × ×

話を戻します。
VIVO!』では、仲村渠(なかんだかり)というひたすら自己中心的な人間が、ふと友人に巻き込まれて高校の臨時教師として一年を過ごすことになります。
三年の担任になったのですが、良心と思いやりの超絶的欠乏は着任から一切の揺らぎを見せず、卒業式の日も(出身校の後輩でもあるパシリ役の)用務員に電話で起こされ、式が終わってやっと(教室ではなく「サボり用の座椅子」が置いてある部室に)姿を見せる、というのが最終話の始まりです。

そんな教師ナカムラ(「仲村渠」が呼びにくいのでみんなそう呼ぶ。本人公認)に、高校にいる普通の人々はとても澄まし顔では応対できないわけですが、今書いたような仕方の説明はある気づきがあって初めて可能になります。

最終章のドタバタを読み進めながらふと思ったのは、まず「眉間のシワを描くのがほんとうに上手いなあ」で、「そういえばこのマンガは、眉間のシワとか怒りの四つ角とかが頻出で、とにかく怒ってる人間が多いな」と思い、「いや、これは"怒り"ではなく…?」と抽象的な方に発想が進み、本記事の冒頭に引用した一節のことを思い出したのでした。


引用の中で藤原氏は「キレる(怒り)は神経作用で、憤りは理念の作用だ」と発言しています。
これは違う言い方をすることもできます。
たとえば、「怒り」は無時間的な反射で、「憤り」は経時的作用の蓄積の結果である

マンガを読む目を休めてふと思い巡らせたとき、『VIVO!』に登場する人物はそのほとんどが「怒って」いるのではなく「憤って」いると気付きました。
(例外は、2巻に出てくる(たしか舞台が小中高の一貫校だったかで)学校敷地内から部室へやってきた小学生たちと、2巻で「どヒール」(悪役)として描かれる文化委員の女の子です。彼らは絵に描いたように「キレて」います)
ナカムラは自己中心的で自由奔放で、意に沿わないことが起こると間髪入れず「嫌な顔」(眉間にたっぷりシワ付きの)を露呈し、友人の教師には嫌味を言い、相手によっては罵詈雑言を浴びせかけますが、それら嫌味や皮肉や罵詈雑言でさえ筋の通った言葉であり、教え子の生徒たちも付き合ううちに理解していきます。
ナカムラは「キレて」いるのではない、と。

自己本位な要求があり、通念に沿った社会的要求があり、弱者の切実な要求がある。
さまざまな要求が対立し、意見が食い違い、本意が叶わずに感情が露出する。
でも、彼ら彼女らがつい身から溢れさせる感情は、なにかこちらを納得させるものがある。
単純に共感できる、というわけではない。
「鬱憤を晴らす」という言葉があるように、人を動かす、いや人を動じさせる感情の発現が、経時的な現象を契機とすること
僕はここに、空気のように(=当たり前に)思考する、人間としてのまっとうさを感じるのかもしれません。


VIVO!』の3巻のあとがきに、タイトルについて著者のコメントがあります。
曰く、「いろんな言語だったり専門用語だったりします。私の中でコレ!!という意味も理由もあります」。
Amazonの評価欄だったか、どこかで「内容は面白いがタイトルに訴求力がない」というコメントを見たことがあります。
パッと見では分からない、調べてもよくわからない、でも僕はこの言葉がこのマンガのタイトルであり、そしてこのマンガを読み通すことで、その意味が僕なりに「身についた」気がしています。
本ブログ内で "free dialogue in vivo"というタイトルの記事を書き始めたのは、このマンガを読んでからのことです。

意味が「身についた」と書いたのは、はっきり言葉として表現できるわけではない消極的な意図も含まれています。
けれど、せっかくなので書いてみると、冒頭の引用から言葉を借りて、『vivo!』とは、「魂のぶつかり合い」という言い方ができそうだと思います。


読み返すごとに、その時々の僕の関心と反応して、新たな思考が生まれる。
蔵書から外さなかった(過去の)僕の選書眼も、なかなかだなと思いました。
奥が深いマンガだ、と言ってもいいのですが、その奥が見通せないのは、意識の洞穴が途中でねじれて「身体と繋がっている」からです。

ここまで書いてやっと、冒頭の連想が、そう意外なものでもなかった、とわかりました。
この意味は、「身体の理解に脳が追いついた」ということです。
面白いですね。