human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゆくとしくるとし '20→'21 1

 
一年を振り返るというとき、
今年は社会的にはコロナ問題で埋め尽くされていましたが、
僕自身はその影響を直接受けたというよりは、
そのニュースに触れて考えさせられることがとても多かった。
だから、書くならそういう話になる。

というより、今年書いてきたブログをタイトルだけ見返してみましたが、
基本的に自分の頭の中のことが書かれている。
なので、書くならそういう話になる、
か、もしくは「なぜそういう話になるか」という話になる。


僕が書く文章の宛先についてですが、
僕は具体的な名前を持った人へ向けて書いているわけではない。

「香辛寮の人々」という会話調の文章を書いた中のいくつかは、
その時深くコミュニケーションをとって何がしかの感慨を得たその人、
を会話の登場人物に想定することが同時に僕の文章の想定読者にもなって、
そういう文章はやけに具体的だったりメッセージを帯びていたりしました。

でも基本は想定読者はいません。
前はそれを「未来の自分が想定読者」と言ったりしていましたが、
今あらためて考えてみると、それもまた違う。

この文書をコミュニケーションととらえるなら、それは投げっぱなしのボールです。
ただ、相手キャッチャーのいない投手は、投げる一球に神経を張り詰め、
自分の投げた球筋から何かを得ようと必死に目を凝らしている。
次の一球は今のそれとは違うものになるはずだ、いや、なるべきだと思って。


なので、「この文章の宛先として自分は含まれているのか?」という判断を、
読者ご自身にしてもらうことになります。
それが不親切であると言われて別に否定はしませんが、
書き手の親切の有無とは別の問題として、
そもそも読み手としての意思の中にその判断が当然に含まれているはずです。

文章を読むとはそのように、目の前の言葉に対して自分の身体を曝露するものだと。
そうでないと、読むことで自分を変えることなどできないのだから。

 × × ×

前に鈴木大拙の『日本霊性論』を読んでいる時に、
現代日本平安時代の再来ではないかという想像を膨らませていたんですが、
この年の暮れから読み始めた橋本治の『江戸にフランス革命を!』の影響で今度は、
日本どころか世界中が「江戸化」しているという妄想を現在抱いています。

アレクサンドル・コジェーヴという人が「世界の日本化」を言った時に、
その日本とは平安時代の貴族文化を源流に見た形式至上主義を指していましたが、
こんどの「世界の江戸化」はそれとはまた違う…いや、根っこは一緒かもしれません。
詳しくはハシモト氏のその本を引用しながら書きたいんですがざっくり書くと、


江戸時代に平和と停滞が三百年の長期にわたってあったわけですが、
それは変化がないという意味ですが、つまり時間軸における「未来」がない。

で、「未来」が存在しない江戸町人の生活を象徴する歌舞伎の論理によると、
「未来」のない時間軸においては「過去」と「現在」がカオスに入り混じる。
そのカオス時間におけるリアリティは「過去」と「現在」の混濁そのものにあり、
その混濁は日常と非日常の境界を無効化してその両者の行き来も縦横無尽になる。

歌舞伎の論理とは「無意味の論理」ということらしいのですが、
上記のような「無意味の論理」を娯楽として当然に受け入れる江戸町人というのは、
そもそも彼らの生活における時間軸がそのようなものであるからであると。

で、「無意味の論理」というのは「意味を無効化する論理」でもあって、
"既定"の未来に向けて過去も現在も捏造してしまう時間感覚というのが、
未来の未知性を否定する面でまさに「未来」のない時間軸とイコールであって、

つまり極私的ネオリベラリズムの発現形態であるポストトゥルースを思想と呼ぶならば、
それがそのまま日本の江戸時代の歌舞伎論理に通じてしまう。


…と思って『江戸にフランス革命を!』を読むと本当に発見だらけで面白いですよ。

江戸にフランス革命を!

江戸にフランス革命を!

  • 作者:治, 橋本
  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: 単行本

 × × ×

いや、上の話を、どこかでコロナの話とつなげようとは思っていたのです。
今日、というかさっきの24時までNHKでやっていたコロナ特番、
世界中でコロナ禍を記録するために自撮りした映像の総集編、
を食い入るように見ていました。
それについて思うところが、なかったわけではないのですが…

明日続きを書く時に、その気になればその話をしましょう。