「権力を取らずに世界を変える」個人編
下記引用の太字と傍線の意味は、文脈上の種類の違いです。
何十年もまえから、科学的研究は、もはや疑いのない正説という指針のもとに行われることはなくなった──とりわけ、認識理論および科学理論においてそうであった。一般に受け入れられた方策は、「プラグマティズム」である。すなわち、真理および知識の増大に関する唯一の基準は、結果だというのである。これは、あきらかに理論における循環性の拒否と、その実際上の容認にもとづく自己 - 言及的循環的論証である。循環性を回避しようとすることが、ますます見込みのない立場をとることとなる。つまり、パラドクスである。それは、有罪を宣告された解決方法が、いまにも容認された理論になるという、パラドクスそのものを示しているように思える。
『自己言及性について』p.30
引用中の「プラグマティズム」は、すぐあとに説明がある通りの意味で、僕は狭義のそれと考えています。
僕がブログで書く「プラグマティズム」は、その都度というわけではないが新しい意味を見出すというか意味をどんどん広げたい意図があります。
結果主義、また実用主義と言い直される時の「結果」や「実用」とは、時代によって、文脈によって、また個人個人によってその意味するところが変わるものであるだろう、と。
狭義のそれは、「結果」とは誰も疑いのないもの、価値のはっきりした共通認識であって、その認識によって我々(活動する社会集団)は同じ目的(社会の発展、科学の進歩等々を共有でき、その目的に邁進できる、という効果があります。
現代社会でいえば、その「結果」の主要例はお金ですね。
その推進力に頼りきりで、価値観に対する反省(つまり「自己言及」)をしなかった、少なくとも重要視しなかったプロセスの進行が、価値観の多様性の喪失、そして統一(「拝金主義」)である。
この状態を、さらなる飛躍の真っ最中ととらえるか、社会の停滞期ととらえるか、価値観として両方があり得ますが、社会の趨勢が前者に傾いていることは明らかで、それは自己言及性の欠如が続いているということであり、「自己言及性の欠如」がポジティブフィードバックとして現状追認の推進力になっているという水準でみればこれは「自己言及システム」の駆動そのものである(ややこしいですね)。
引用部に話を戻すと、
「自己言及(性)」と「循環(性)」の違いにはあまり敏感でなくてよい気がしますが(たぶん同じ現象を各々別の視点からみた結果の表現の差だと思います)、狭義のプラグマティズムに対するルーマンの表現に「なるほどなあ」と思って、その感動から何か書いてみようと思ったのでした。
その部分を再掲します。
これは、あきらかに理論における循環性の拒否と、その実際上の容認にもとづく自己 - 言及的循環的論証である。
前者の「理論における循環性の拒否」とは、「結果とはなにか?」「実用とはなにか?」という、目的の価値そのものへの問いを封印(禁止)する、その問い自体は無価値であるとする、ということです。
いっぽう、後者の「自己 - 言及的循環的論証」は何を意味するのか。
こちらは解釈が入るというか、前者よりも理解のための補助線が多くなるんですが、一言でいいかえるとトートロジー(同語反復)のことだと思います。
「なんでお金が大事かって? んなもん、お金が大事だからに決まってんだろ」
という、問いと答えが互いの尻尾に噛み付いて身動きができなくなったような意味をなさない言葉なんですが、生活の実際の場面で、たとえば素朴に発した子どもの疑問に親がこのように真顔で答えれば、それなりの効果を発揮して子どもは黙り込むわけです。
この例は興味深いですがこれ以上掘り下げません(言葉と身体、といったテーマになると思います)。
面白いと思ったのは、この同語反復も、自己言及の一つの形式としてそれに含まれるという認識です。
その認識がさらに呼び込むのは、
狭義のプラグマティズムが、思想としての実効性確保のための、ルーマンのいう「循環性の拒否」を機能として取り込みながら、しかしよく見るとそれは循環性の位相(フェーズ)を変えたにすぎない、という気付きです。
つまり、システムは自己言及性から逃れることができない。
自己言及性は、オートポイエーシス・システムの生命力である。
システム内にコミュニケーションを生み出し、そのコミュニケーションは外部環境と相互作用することでシステム自身が維持され更新していく、そのために欠かせない機能として自己言及性は位置付けられる。
しかし、自己言及にはいくつかの形式があり、その中には生命力を賦活しないものも含まれる。
自己言及の擬制でしかなく実効的な機能を持たない形式の一つ、それが同語反復である。
(上の例では同語反復の実効性に触れていますが、それはそこに「身体」があるからです)
いや、今書いたことをルーマンが言ったわけではなく、また引用にある、循環性を回避する姿勢がもたらす「ますます見込みのない立場」が意味するところもはっきりとは想像できません。
言葉だけでいえば「システムが自己廃棄へ向かうこと」なのでしょうけれど。
で、この「ますます見込みのない立場」を脱する方法について、引用部のすぐ後から章末まで書かれています。
その内容のところどころにやはり面白いことが書いてあって、しかしこれまでの文脈とつながるかどうか怪しいんですが、ちょっと続けてみます。
この曖昧な状況をうまく処理するひとつの方法は、つぎの〔科学〕革命を生き抜く能力があるかどうかという視点から、もろもろの方法論を吟味することである。機能的分析は、そのひとつといえる。(…)機能的分析は、構成的なパラドクスを「解決された問題」として(それは問題であり、また問題でない)再定式化し、問題解決の比較へと向かうのである。
同上 p.30
次の科学革命を生き抜く能力、というすごいことを言っています(角括弧はたぶん翻訳者註)。
科学革命、それを価値観の大転換だと考えると、その革命が起こる前から変化後の価値観などわかるはずはなく、しかし「そこをなんとかがんばる」のであって、続く引用部も表現自体がパラドックスなんですが(問題であり、問題でない?)、なんとなく言いたいことはわかります。
ある価値観を仮決めして問いを設定しその答えを出す、この答えは出発点が曖昧だと「解決された」なんて言えないわけですが、そういえば科学の発展の原理は仮説とその反証であるとポパー(だったかな?)が言うように科学的言説はすべて仮説であって、これがその一例になっているわけですが、パラドクスを見出しそれを解決したという擬制は、その前提である価値観(論理)をこれとは別の価値観(論理)と比較(「問題解決の比較」)することで「再定式化」される。
のちに覆される可能性を前提とした「解決」だから、「解決された問題」は、別の文脈との問題提起〜解決までのプロセス全体の比較(「問題解決の比較」)においては別途新たに問われるべき存在であり(「それは問題であり」)、しかしそこに至るまでの仮決めした文脈の内側においては暫定的ではあれ最終的に導出された成果として価値がある(「また問題でない」)……。
自己言及の論理が面倒なのは、端的にキリがないことで、ルーマンの本を読んでいると翻訳者が不親切だとか不徹底だとか思える箇所がいくつもあるんですが、自分でこのテーマについて文章を書いていると同情的になってきます。
自己言及の論理は、「バッサリ」言ってしまう、オッカムの剃刀でじょりじょり簡潔な表現に徹するとその真意(意味の厄介さ、複雑さ)が伝わらない。
だからといって、「ネチネチ」書きつらねる、思考のプロセスの全体(それに終わりがないことが面目躍如たるところなんですが)を余すところなく再現しようとすると、これまた伝わらない。
だから訳者はどこかで割り切って、前者を採用せざるを得ない。
後者のネチネチ式が伝わらない理由は、以前は読み手の理解力不足とか根気のなさとかが原因かなと、つまり読み手側に問題があると単純に思い込んでいましたが、いくつか前の記事で「システムの主観」という表現を見出してから、それだけではないなと思うようになりました。
自己言及のプロセスを要素部分に分解して手順を追う、どこまでも長いがそれをつなげて理解すればそれがプロセス全体の理解になる、こういう考え方は「生活論理」、日常的な言葉の使い方に基づいた価値観であって、それは科学の要素還元主義が行き着いた限界(袋小路)と似たものです。
言葉を尽くせばいずれは理解に至る、あるいは表現を研ぎ澄ませて絞り切れば理解できる、この両者はある同じ論理的価値尺度における両極の表現であって、これとは別の価値尺度による「理解」もある。
僕が「システムの主観」と言ったのは、そこにこのような意味を込めたのかもしれません。
えーと、話それほどズレてはいないんですが戻します。
自己言及の終わりのなさ、というテーマは、哲学的にも有名です。
「私とは誰か?」
「私とは誰か、と問う"私"とは誰か?」
という問いをいったん始めると、終わりが見えなくなる。
あるいは、ゲーデルの不確定性定理だったか、ある理論の根拠をその理論の内部で証明することはできない、というのもあります。
こういった、自己言及性のわりと日常的な側面からは、ポストモダン思想が連想されます。
あらゆる論理や価値には究極的な根拠はない、人間的営為の基盤は恣意性にある。
だから人間は浮き草のように漂うしかない。
いや、人間はだから完全に自由なのだ。
大雑把に書いてますが、まあいいとして、
最近読んでいる竹田青嗣の『人間性の未来』という本には、ポストモダンは批判理論としては正当だが解決案を生み出す推進力にはなっていない、それは哲学的にはイロニー(アイロニー)だ、と書かれています。
批判がメインになっている、という意味ではそうなのだと思います。
ただ、それは重要な気付きであって、もしポストモダンがそれを行動に活かせないのであれば、別の思想がその気付きを引き継いで新たな価値観の構築に向かわねばならない。
……あれ?
いや、ポストモダンがどこかでつながると思ったんですが、
ひとまずこれもおいときます。
もう少し戻る。
社会システム内に新たなコミュニケーションを生み出すような、
生命力の発露を伴う自己言及機能の賦活。
あるいは、そのような自己言及性の利用。
そのためのヒントが、上記引用のあと、章末に書かれています。
もろもろの普遍理論──論理学はそのひとつであろう──は、同タイプに属する他の諸対象とそれら自身を理解し、また比較するという重要な利点を示している。論理学の場合、多様に価値づけられる構造と相応する抽象化が要求されよう。古典的論理学は、自己言及を除去したのではなく、それを反省する余地がなかった。「(…)論理学は、反省に関する有用な理論となるために、自己自身に加えて他のサブシステムを取り込まなくてはならない。」こうした条件のもとでのみ、機能的分析は、普遍理論の自己開発のテクニックとして、有用なものとなる。
同上 p.31-32
「」内は著者によるGotthard Gunther,"Cybernetic Ontology and Transjunctional Operations"からの引用
森博嗣の愛読者は「抽象(化)」という言葉にまずポジティブな印象を抱くものですが、それはさておき。
この引用部、とくに太字部を読んで、前から自分で思っていたことをある表現に落とし込むことができました。
抽象化(とその対になる具体化)が、
「他の諸対象」との橋渡しになる。
抽象化と具体化のセット(または往還)、これは連想と言ってもよいのですが、
正確には「ひとつの形式を前提として見た連想の機能」ですね。
引用の「抽象化」を含む一文が、僕にとっては内容(というかここから連想されるもの)が濃すぎて、今何を書こうか、いや何が書けるのかと呆然としているのですが……
「これだけが全てではない」という強い認識とともに、思いついたことを書くしかありませんね。
オートポイエティック・システムの一般理論、これがルーマンの本(の第一章)の主要テーマでした。
引用中の「普遍理論」はおそらくこれとイコールで、とすると論理学はそのシステムの一例である、と。
僕は「抽象化」という言葉からすぐに「連想」という言葉を引き出したわけですが、ここからの連想として、「脳と身体をもつ一人の人間の連想(思考)システム」もまた、オートポイエティック・システムとして捉えることができるだろうと。
すると、引用のその一文が、今の僕自身にとってまさに身近な(生活レベルの)テーマとして引き寄せられてきます。
さらに(というか別の)飛躍すれば、先の引用にあった「次の科学革命」、これは一人の人間の中で「起こりうる」ことでもあると。
(僕自身の認識でいえばそれは「もう起こっている」)
まだまだ連想されることがあります。
見田宗介の『超高層のバベル』をたしか先月くらいに読み終えて、その後味は僕の中でまだ新鮮に残っています。
見田氏は誰かとの対談の中で(加藤典洋だった気がします)、
資本主義・消費至上主義社会に対して、
そうマイナスばかりあげつらうのでなくプラスの面もちゃんと見ようよ、
という文脈で、氏の過去の著作に対する解説として、
現状の価値観の維持推進の先にありうる充実した未来社会を描いていました。
たとえば、
消費の主要目的が生活のための物的必要性から離れてイメージになったこと、それは「環境資源の浪費を抑えながらの経済成長」が可能であることを意味する。
サービスや情報を元手にして経済活動が生まれるなら、経済成長の主力をそちらに担わせて、物的消費を必要最低限(たとえば身の丈)に減らすことも可能である。
現状はみなの「他者の欲望に対する欲望」、これが同じ対象に向かってパイの奪い合い、「ゼロサムゲーム」を呈しているが、社会が豊かになったこと、産業と科学技術が発達して生活水準が底上げされたことの意味を原理的にとらえれば、非物的消費の推進と多様化(ニッチの開拓、創出)によって現状の問題(環境問題、所得格差問題など)は解決できる。
また、現在の生活水準を維持するためだけの労働量を考えれば、週三日・一日5時間(?)(⇦時間の数字は記憶あいまい)の労働で賄える、というアンドレ・ゴルツの理論がある。
そんなことが書かれていたと思います。
産業構造の根本的な転換を要するという面で、社会レベルの実現性にはかなりの困難が伴います。
でも、これを読んだ時にも思ったことで今改めて思い出したことでもありますが、
この「未来社会の実現」は個人レベルでも可能なことなのです。
生活環境の要請、仕事の要請、習慣や常識の要請、企業広告の要請。
社会で生きるうえではさまざまな要請が否応なく個人に降りかかる。
それは紛れもない事実ですが、
その事実に対しては正確に認識をすべきです。
つまり「否応ない」のは「降りかかってくる」ことだけであって、
その要請にどの程度従うかには、「個人の裁量」が存在する。
その「個人の裁量」が、どれほどの(革命的な)力を持つのか、
上に並べたいくつもの要請のうちで、
その可能性について教えてくれるものは一つもありません。
そしてその可能性は、
ただ教えてもらうだけで感じることはできず、
きっかけとして与えられてからは、
自分自身で(あるいはその仲間とともに)形にしていくしかない。
そしてたとえば、
そのきっかけはここ(見田氏の構想)にあったのだ、
といったことなど。
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- 作者:見田 宗介
- 発売日: 2019/12/12
- メディア: 単行本
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