いやー、ルーマンは本当に面白い。
いつだったか、『自己言及性について』を1年以上かけて読み終えて、
その次のルーマンはと手に取った『目的概念とシステム合理性』を今読んでいて、
ちびちび過ぎて、どれくらいの期間読み続けてるかもはや記憶にありませんが、
来月、今働いている図書館で終日開催の「図書フェスティバル」があって、
各種イベントのうち自分の担当分に、当日までに利用者アンケートをとって、
名前の挙がった本をフェス当日に面展するという企画があって、
「今年いちばんおもしろかった本」とか、そういう項目を6つ7つ考えるんですが、
「(おもしろすぎて)読み終えるのがもったいない本」てのもいいなと今思って、
今の僕ならルーマンのこの本を推すんですが(誰も読みそうにないですけど)、
というのも、読み終えるのが勿体無いと読み惜しみなどしようものなら、
生きてる間(というか頭がまともに回る間)中にまず読了が叶わない、
ほどの複雑さと分量。
話を戻して、『目的概念とシステム合理性』について。
内田樹の本はもう二十冊以上読んでますが(あれ、早速違う話に…)、
氏のブログも、彼が書き始めた2000年前後から全部読んでいて、
要するに氏の文章というか文体は相当僕の身体に染み込んでいるんですが、
ここまでくると氏の新刊本などは読まずとも書いてあることがわかる、
というか「読み応え」がタイトルと帯だけで事前に感得される、
と言って過言ではないほどなんですが、それでも読むとやっぱり面白い。
それは、感覚として、読むと「いつもと同じことを言っている」のだけれど、
それは内容というより、自分への文章の染み込みかたが同じだというようなもので、
その内容から自分が思いつくこと、連想することはやっぱり毎度毎度違う。
ということは、昔読んだ(と記憶にもちゃんとある)氏の本を改めて読み返しても、
やっぱり面白くて、読んだことあるなあと思いながら、その時に新しいことを思いつく。
そういう、「考えるための読書」という姿勢においては幸福な体験が起こるのはなぜか。
ひとつに、氏の考え方が、現代哲学でいう構造主義に基づいていること。
あるテーマについて語っていて、その具体的な内容に触れていても、
アプローチがそのテーマの「枠組み」を常にとらえているから、
総括として枠組みに触れる部分だけでなく、具体的な内容に対する言及を読んでいても、
今そこに書いてあることとは別の(しかし読み手の関心に沿った)ことを連想する。
これは橋本治のいう「行間を読む」というやつで、そこには何も書いてはおらず、
しかし読み手はそこに何かを読む、その時の、その読み手にしか見えない何かを読む。
「同じ文章から毎回変わったことを思いつく」というのはそういうことなんですが、
ルーマンの本の読感から内田樹のそれを連想して、まず後者に触れてみました。
「読み手にいろいろ考えさせてくれる本」という視点で両者は似ているのですが、
でも、やっぱり、当然ながら全然違う。
ルーマン本を読みながら、もう一つ連想したのが『銀の匙』を使った授業のこと。
この小説は読んだことはなくて、この本を使った国語の授業の話をどこかで読みました。
その記憶で書くのですが、
高校の国語だったかな、半年かけて、授業の中でこの一冊を読み込むというものでした。
『銀の匙』は短めの小説らしく、おそらくその授業に満ちているのは、
素材の多様性ではなく、読解の、解釈の、想像の多様性であると思われます。
そして、その「素材」は、少ないよりもっとシンプル、「ただ一つ」ではないかと思う。
(その「ただ一つ」が何かは、ここでは書きませんが)
× × ×
『目的概念とシステム合理性』は、極度に抽象的な文章が果てなく続く、
恐らく冒頭のいくつかの文を読んだだけで本を閉じたくなるような本です。
僕は別のいくつかの本からルーマンの凄さと難解さを予め知っていたのと、
一時間かけて4,5ページしか進めないような読書ができる生活の余裕があったので、
最初の出会い当時、忍耐強くルーマンの文章に取り組む環境と心構えが整っていました。
「読んで自分が思いつくことが面白い本」が同時にものすごく難解な本だとすれば、
その本の魅力に気付くには相当な時間がかかるのも仕方のないことです。
それはさておき、話を戻すと、
この本の延々と続く抽象文は、上で触れた『銀の匙』と同じく(なのか知りませんが)、
「ただ一つ」のことについてのひたすらな解説です。
それは何かと言えば、言わずと知れる、「システム」ですね。
言い方を変えると、ルーマンの文章の一文一文には、全て同じ「但し書き」が付けられる。
この文章は、「システムとは何か」について書かれています。
全部。本当に。
だから、この本を要約すれば、この一言で済ませることもできる。
と、たとえば、「要約(書評)だけで読んだ気になれる本」みたいなの結構ありますけど、
逆に、「その本の要約ができればその本を読んだ気になる」ような読書の姿勢があるとすれば、
ルーマンのこの本は、頁を開く前から読んだ気になれる。
「ああ、この本はシステムのことが書いてあるよ」
と人に説明して、間違いでないどころか、概ね正しいからです。
が、僕が言いたいのはそんなことではなく。
「システム」という言葉は、わかるようでわからんような、
どんな文脈でもその文脈次第で勝手に意味が想像されるような単語なんですが、
たとえば「人間」とイコールで結んでも、それほど違和感がない。
だから、上述の但し書きをこう書き換えても、何の問題もない。
この文章は、「人間とは何か」について書かれています。
そうなると、この本は哲学書なのか…と言われれば、そんな気もしてくる。
いや、何が言いたいのかというと、
同じ一文で要約できるような文章が延々と連なっていて、
けれど一文ごとに読み手は色んなことを連想することができる。
こんな本は、もはやふつうの本ではない。
論理やイメージを具体化し、一意的に固めていくために言葉が使われているのではない。
文章は極めて論理的でも、そこに用いられる言葉が高度な抽象性を帯びると、
それらの文章は、何かを囲ったり、限定したり、確定させたりしない。
一つの文章を物理学の分子に見立てるなら、分子を構成する各々の原子(単語)は、
分子としては確立しながらも、開放された無数の結合手をひらひらさせている。
解放系(オープンシステム)の文章の性質の、これはその一つでしょうか。
もう一つ、「自己言及」について触れていませんでした。
意味を確定させた単語を連ねた文章は、「自己準拠」の性質を帯びます。
それは、その確定させた意味の確かさを基盤として、論理を次に進めるためです。
だから、自己準拠的文章そのものにフィードバック機能はなく、内省がありません。
(文章ではないですが、科学研究の「進歩」的側面は自己準拠をベースにしています)
具体例がないと分かりにくいのですが続けますと、
自己言及的文章は、上と対比させれば、
言ったそばからその意味が自分自身に返ってくるような文章です。
…という言い方は怪しいかな。
……。
別の言い方はないかと思って、今ふとキーボードから離れて本を手に取りましたが、
余計に分からなくなりました。
なんというか、
文章が自己言及的というよりはテーマがそうだという方が近いんですが、
その、自己言及的というのはなんだか今の自分にとっては哲学であって、
上で、この「システムについての本」は「人間についての本」でもあると書きましたが、
そうするとこのシステム本は「ものの考え方についての本」であることにもなって、
しかもここで使われる言葉が、意味内容を伝えるためのツールとしての言葉ではなく、
「そもそも言葉が生み出される場面における言葉」のようで、
いやこれもテーマなのか、「なぜ言葉が生み出されるのか」について書かれている……
「開放系の文章」を、開放されたまま分析するのは不可能なんじゃないか。
いや、分析というか、魅力を表現してみたかっただけなのだが…
サイバネティックスのようなシステム論の目的の一つは、
人間の思考の複雑さや多重性、再帰性などをコンピュータで再現することだと思いますが、
実物があって、それに対する再現率を上げていくという発想は、
その科学研究がどうしても数値的にならざるをえないこと、またもっと大事なことは、
実物の性質を数値化して固定することが(成果を数値化するための)前提になる。
一方の、という対比が正しいかは分からないし、
ルーマンの、という限定の仕方もこの分野の体系的知識が僕に全くないので不明確ですが、
僕が感じるルーマンのシステム論に関する文章は、
書かれているシステムに人間を含むことができるようでありながら、
人間の再現ではなく、
人間の複雑性の理解とさらなる複雑化の同時進行が目指されている。
「何かをわかるということは、わからないことがわかる前よりも増えることである」
と言ったのがソクラテスだったか、違うかもしれませんが、
この名言を、ここだけ読んで「再帰性」という言葉は浮かばないんですが、
これを人間理解に当てはめると、つまりは「思考の再帰性」とイコールということになる。
いや、すみません、
言いたいことを表現するよりも、
自分の中で謎が増える形になってしまいました。
また、未来の自分がこれを読み返したら、
何か書きたくなるであろうことを願って筆をおきます。。