human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Hello to "Blue-Box Parallel World" !

 
セネットの『クラフツマン』も、もう長い間読んでいますが、
海士町に来てからは毎週末の朝食後に読む習慣になってさらに遅読化し、
ようやくそれも最終盤になってきて、読了を惜しむ気持ちが出てきました。

ひょんな偶然(というか偶然の偶然)ですが、
この本が手元に二冊あるというのは大変ありがたく、
一冊は売りに出す前提でいても、気兼ねなく書き込めるもう一冊、
線を引かないページはないくらい書き込めたお陰で発想も伸びやかに、
今日なぞ連想が活発に働いて、時折目を閉じながらちびち読み進めて、
10ページも進まぬうちに二時間が経っているという有様で、
そんな時間の使い方に全く後悔を催させないのは、連想の濃密さ。
 
 × × ×
 
ブラックボックス社会」というのも、常に念頭にあるテーマの一つです。

分業・組織化・自動化・システム化が複雑になるほど、
個人が生活の中で頭を使う必要性が減っていき、
原理・メカニズム・由来・経過を知らぬまま便利さに身を預ける。

そうした無思考の奨励をセネットは
「問題化する思考を消失させるブラックホールと呼んでいますが、
ブラックホールは意識下で発生し、網膜をバーチャルに覆う色眼鏡と化し、
そうして身の回りの物事がブラックボックスとして把握され、
それを気にしなくなる、と同時にその視覚をポジティブに「効率化」と捉える。

世の変化を待つだけで手を拱いていれば、
情報の海に、またそれに流される人々に流されて、
好むと好まざるとに関わらず勝手に生じるかに思えるブラックホールに呑まれる。
周りがみんなそうだから、自分もそれでいい、という人間はまあ、仕方ない。

一方で、
ブラックホールは危険だな、
ブラックボックスは気味が悪いな、
と思う人間は自分でなんとかするしかない。

そんな後者なあなたに「うってつけ」の鎖書、
のタイトルをさっき思いついた、のがこの記事のタイトルです。
ただ、三冊のうち一冊がかなり使用劣化しているので、ちょっと考えものですが。
修理なりクリーニングなり、あと踏ん切りがつけばショップに載せます。
 
 × × ×
 
この記事で考えてみたかったのは、そのタイトルの解題です。
『クラフツマン』を読む目を止めて脳内でイメージ化していたのを、
言葉に移し替えると、どうなるか。


まず、「ブラックボックス」の対となるものを考えました。

黒の反対は白なのですが、
ホワイトボックスと呼べば、透明、スケルトン、内部構造まるみえ、
のようなイメージかと僕は思いました。

うーん、そういうことではないんですね。

カニズムの理解という志向自体は「ブラックボックス化」への対抗となりますが、
その内実を「一望俯瞰」といったキーワードで捉えてしまうと、
実は、同じ穴のムジナというか、ゾンビ狩りがゾンビ(だっけ?)になってしまう。
 
システム(化された道具)を、メカニズムを把握せずに機能だけ利用する、
というブラックボックスの効率的利用は、
プロセスの圧縮、結果の対価を得る手間の「無時間化」がキモです。
一望俯瞰によるメカニズム理解も、この「無時間化」に価値をおく姿勢が共通します。

程度問題はあるにしても、本来、システムが複雑であるほど理解に時間はかかるはずで、
その理解に対する価値を経過の圧縮度で測ることになれば、行き着く先、
理解の内容は単純化され、納得は自己満足しかもたらさなくなる。

SE会社が寄ってたかって管理システムを組み上げる様を想像すればいいのですが、
世の中を回すシステムが、一人の人間がその全貌を理解するのに膨大になり過ぎた以上、
そのシステムの透明化による理解が身の丈を超えるものになるのは必然です

ここで急に「身の丈」が出てきましたが、
身体感覚による理解・把握と有時間化(物理時間でない時間感覚の賦活)はリンクします。
 
さて、話を戻しまして、
とりあえずは黒の反対を、
白ではないが、色でイメージするとして、
まあ感覚的にいろいろと(頭の中で)挙げてみたのですが、

とりあえず、「青」がいちばんしっくりきました。
ブラックボックス(暗箱)に対する、ブルーボックス(青箱)。

そして、この青色のイメージを元手に、
ブラックボックス社会に対抗する「なにか」を想像してみました。

内田樹は著書でよく「思考の肺活量」という表現を使います。
また高橋源一郎が、最近どこかで読んだ本で、うろ覚えですが、
同じ姿勢を「深海(海の底)をゆっくりと歩く力」という言い方をしていました。

まず、青色のイメージが、これらとリンクしました。


青箱は、白箱と違って、
システムのメカニズムが露わになっていたり、
わかりやすく提示されていたりはしない。

暗箱は、その表面がどす黒く、またはつるりと黒光りしていて、
外光をすべて吸収し、またはすべて跳ね返すがゆえ、中は全く見えない。
白箱は、システムの外枠によって「箱」として捉えられると同時に、
光をすべて通すがゆえ、中身が一望できる、ギアやシャフトの一つひとつ動く様が見える。

青箱は、暗箱とも白箱とも違う。
違うのは、箱の外から眺めるだけではない点。
暗箱も白箱も、箱そのものが機能をもち、何かの目的に利用される、その目的が主である。
対する青箱も、機能をもち、目的をもつかもしれない、
ただ決定的に異なるのは、青箱は「箱の中に入るためにある」こと。
それは、青箱というモノの存在理由というよりは、モノを青箱「として見る」ことの理由。

つまり、ある一つの道具は、ある一つのシステムは、
イリイチは『コンヴィヴィアリティのための道具』で、社会制度も「ツール」と呼んでいた)
暗箱でも、白箱でも、青箱でもありうる、ということ。

言い方を変えよう。
青箱は、それを持つ人に、「中に入って身を浸すこと」を推奨(afford to)している。
動かなくなった時計を目前に、子どもがそれを分解する衝動に駆られるように。
 
外から眺めると、青箱の中は、揺らいで見える。
仕組みの構成要素が各々一面を見せるが、中は外と空気が違うのか、揺蕩っている。
もっとよく知るためには、中に入らねば、潜らねばならない。

しかし、入る前から「潜る」と分かっているように、
その中では、外とは違う「なにか」が要求される予感がある。

知識、は間接的なものだろう。
要求されるのは姿勢、その中心は、比喩になってしまうが「肺活量」
つまり青箱の中は「水」で満たされている、だから外からは青く見える。


さて、上で提示した3つの「箱」は、どれも「ものの見方」であるような言い方をした。
そして、青箱は、暗箱や白箱とは「ものの見方」、「ものの触れ方」が違うと言った。

この「箱」のメタファーを、世界観としてとらえた時、
パラレルワールドという新たなキーワードが生まれる。

何を大袈裟な、と思われるかもしれないが、この考え方は現実的である。
 
文明の利器の効率的利用、
最小の労力で最大の利益、
欲望と結果の無時間的結合志向、
これらが、個人はさておき、
「統計的個人の集合」としての社会の原動力であるとすれば、

統計的個人の(スマホに映る像も含む)身の回りに溢れる品々という「箱」の色は、
端的には黒であり、一捻りして白であり、白は黒の「補完色」としての白であり、
そうして暗箱と白箱で埋め尽くされた世界が現代社会の「メインの世界」だとすれば、

自分の生活に寄り添う一つひとつの「箱」を青いと宣い、
時間をかけてその一つひとつに潜ろうとする者の世界は、
同じモノに囲まれている意味で統計的個人と同じく「メインの世界」に在りながら、
「深海の思考」に価値を見出す身体は「もう一つの世界」に所属してもいる。

両者がものの見方によって、
その在り方、その姿勢ひとつで入れ替わるとすれば、
2つの世界はパラレルな関係にあるといえる。

 × × ×

水のメタファーは、なんとなく居心地がよいです。
僕は泳げないので、メタファーである限りにおいて、ですが。
 
 × × ×
 
ちなみに、冒頭の鎖書の三冊の著者は、ダニエル・セネットのほかは、
ナシーム・ニコラス・タレブ、それからアイン・ランドです。

Ulvesang - Ulvesang (Full Album) - YouTube

↑本記事を書いているあいだ、ずっと聞いていました。
たまたま出会ったんですが、筆が進んでよかった。
相性が。
 

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