human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゆくとしくるとし '20→'21 2

 
今年ははちまんさんへ登ってきました。

去年は面倒くさがって行かなかった気がするんですが、
それまで毎年行っていた元日の初詣を再開したという感じです。

年の変わり目に間に合わせる気もなく、
新年10分前に家を出たので道中で新年を迎えました。
近くのお寺なのか、付近の家のテレビの音なのか、
除夜の鐘らしき音を聞いた気がします。


本宮までの50分の道中、山道に入るまでは見かけた人は一組、
電灯なしで月明りと共に歩む山道では三組の人とすれ違い、
それぞれこちらから声をかけ、挨拶を交わしました。

何年か前は、挨拶をする雰囲気かどうかをすれ違う間際に察知する、
という器用な(というか神経過敏ですが)ことをしようとしていましたが、
雰囲気はもともとあるだけでなく当事者がつくりだすものでもあるわけで、
これまではその当たり前にあるはずの当事者意識が欠けていたようで、
というか今日はそんな面倒なことを考える発想もなく、
素直にこちらから(多生の縁の)雰囲気づくりをつくる姿勢になっていました。

それはたぶん、歩くことを身体が楽しんでいたからだと思います。


思えば去年の一年は自分の身体に正直になる生活を心がけていました。
頭が身体に従属するようになれば、頭は余計なことを考えなくなる。
それは日常的に歩く時間が多い生活の中で体得した感覚でした。

身体感覚が目覚めれば、すなわち身体が開放されていれば、
視界に入ってくる景色やものの見え方は変わってくるし、
その視覚に対して反応する脳の活動も意識的なものとは変わってきます。
そのなにが変わるかというのは、
考え事をしながら、たとえば俯きながら歩く時と、
歩くことに集中して、空を見上げながら歩く時とで、
ふと目に入ってくる(同じ)ものに対する見え方や考え方を比べればわかります。
身体感覚の云々は、当然ですが体得するのが唯一のアプローチ方法です。


今日は月が明るくて、歩きながら空ばかり見ていました。
ほんとうに、前を見るのは注意確認だけで、ほとんど見上げながら歩いていました。

加藤幸子の『ジーンとともに』という短編集は、鳥が主人公の短編がいくつかあります。
小説の中なので、彼らはもちろん言葉をしゃべるわけですが、
ある短編でその鳥たちは太陽を「光る輪」と言い、月を「死んだ光る輪」と呼ぶ。
もちろん月は太陽の明るさに比べれば死んでいるも同然の暗さなわけですが、
そうはいっても月明りだけで山道を歩けるほどのこの明るさを「死」と呼べるものか、
などと考えていました。
たぶんその鳥たちは基本的に夜はほとんど活動をしなくて、
たまたまアクシデントに遭遇するなりして夜に空を飛ぶことがあって、
あまりの暗さにそういう印象を持ったのかもしれない、などと。


そういえば、家を出る時にメガネは(ケースなしで胸に入れて)持って出たんですが、
財布を忘れました。
途中のコンビニや自販機で何か買う気は全くないのですが、
賽銭を納める気も同様に全くないことを、
意識したことはなかったんですが今回の忘却において改めて意識させられて、
うーんこれは初詣なのだろうか、
と思ってもよかったんですが、
まあそんなことは今書いただけで、考えはしませんでした。

ネットおみくじだとか、正月を外しての分散初詣だとか、
密を避けるための「なんでもあり」がもはや伝統そっちのけレベルで、
何を初詣と考えるかは個人の自由だ、などとテレビで専門家が言う始末で、
まあそれは別にどうでもよくて、
というのもこんなことになる何年も前から、
僕は「個人の自由」で無賽銭初詣になっていました。


本殿の人出は例年より少ない気もしましたが時間帯の違いかもしれず、
若者が多いような気もしましたが気のせいかもしれません。
ただ、高校生以下の若い人は家族連れでなければほぼ集団で来ていたのと、
その集団は「自分が集団の一員であること」に一生懸命で、
周囲への注意力が散漫になっているという印象を受けました。

それが不真面目だとか社会性に欠けると言いたいわけではありません。

彼らがその集団から外れた一瞬に見せる純朴さ、素朴さを垣間見る瞬間があって、
彼らは「一生懸命に周囲への感度を落としている」のではないかと思いました。

鈍感になることに集中するという、
矛盾なのか徒労なのか、何かやるせなさを感じてしまう努力なのですが、
それが彼らの日常生活の必要から出た生存戦略であるという点で、
複雑な時代になったものだと感じます。
(この機制については内田樹の『下流志向』に詳しい)


いや、そんなことを歩いている間は全く考えておらず、
頭からっぽで月を見、山道の闇を見、
国宝だという本殿の建屋を見、本殿裏で根を砂利地に這わせた古松の幹を見、
無心に薪をくべる焚火番のおじいさんの横顔を横目で見、
そうしてあたりでいちばんの生命力を放ち続ける焚火の中心部、赤々とした熾火を見、
火の粉の匂いをマスクを付けたり外したりを繰り返しながら嗅ぎ、
そうして焚火のそばにいながら例年していたような考え事はまったく起こらず、
わずかにジャック・ロンドンの『火を熾す』(まだ読んでいない)を連想しただけで、
この熾火が未来のなにかにつながる可能性だけをその場で感じ取っていました。

そんな2020年の終わりと、
そして2021年の始まりと。

 × × ×

みなさま、よいお年を。

そして、あけましておめでとうございます。

どうぞ、今年もよろしくお願いします。

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