human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

極北にて、連想強化と無私

 彼はよく言ったものだ。原始時代の泥の中から這い出して以来、我々は「不足」によって形づくられてきた。なんだっていい──チーズ、教会、作法、倹約、ビール、石鹸、忍耐、家族、殺人、金網──そんなものはみんな、ものが足りないから出現したものなのだ。ときにはものは「決して十分ではない」し、またあるときには「ぜんぜん足りない」。とにかく万民に行き渡るということがない。人類全体の物語とは、生活の資を得ようと悪戦苦闘して、それに失敗する人々の物語でしかない。
 その悪戦苦闘の痛みが、人類に忍耐というものを教えた。

マーセル・セロー『極北』(村上春樹訳)

 またローマの橋と言えば、人々はすぐにもコルドバに現存し、かつ現在の自動車道路の一つとして使用されているグアダルキビール川に架けられた巨大な石橋のことを思い出す筈であるが、まずあの橋は、セゴビアの水道橋とともに代表的なものである。けれども、言うまでもなく代表的なものだけがあるわけはないのであって、実にローマの橋はスペイン各地に無数にのこり、かつ存在しているのである。
 このローマの道と橋が、どんなにおそろしい山中にあるかということは、このあたりの名産であるチーズについてみればわかるのであるらしい。このチーズは、山がけわしいために山中で出来る牛乳その他を平地に降ろすことが出来ないために、牛、山羊、羊等の乳をまぜこぜにして作ったもので、それは途方もない強烈な匂いを放ち、そのまま冷蔵庫に入れておくと他のものがみなこの匂い、あるいは臭いをうつされてしまうほどのものである

「1 アンドリン村にて」P.20(堀田善衛『スペイン断章 - 歴史の感興』)

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 なおかつ父はこうも言った。自分はものが過剰にある世界に生まれてきた。これはまさに上下が逆さまになった世界だ。そこでは金持ちは痩せ、貧乏人は太っていた。彼の若い頃には、ノアがアララト山に箱船を繋いで以来、世界に出現した人類の総数よりももっと多くの人間が、世界にひしめきあっていた。

同上

 新たな「満足」を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった。もしラッシュアワーの時間帯以外に通勤できる身となれば、そのひとはすでに成功者であるにちがいない。自宅で子供を産める身となれば、そのひとはおそらくエリート校に通える身分でもあるにちがいない。もし病気でも医者にかからずに済ませられるとすれば、そのひとは他にはない特別の知識に精通していることだろう。もし新鮮な空気を吸うことができるとすれば、そのひとは金持で幸運なひとにきまっている。もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ。今日の下層階級を構成するものは、逆生産性のお荷物一式を消費しなければならないもの、みずから買って出た奉仕者たちのお情けを何としても消費しなければならないもの、にほかならないのだ。これと逆に、特権階級とは、逆生産性的な装置一式と手前勝手な世話やきを自由におことわりできる人々のことである

「2 公的選択の三つの次元」p.40-41(I.イリイチシャドウ・ワーク - 生活のあり方を問う』)太字は本書傍点部

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 なぜ私にそれがわかったのか──またなぜ彼がそんなことをしなくてはならなかったのか──いまだに不明だ。しかし、人々のなす暗い行為について深く考慮しても詮ないということを、その後に巡ってきた歳月が私に教えてくれた。不思議なことだが、人々は理念のために戦っているときに、最も残虐になれるようだ。カイン以来私たちは、どちらが神のより近くに立つかということを巡って、延々と殺し合いを続けてきたのだ。私の目には、残酷さとはものごとのひとつの自然なありように見える。そんなことについて個人的に突き詰めて考えても、頭が混乱するばかりだ。誰かを傷つける連中は、自分たちが望んでいるほど、相手に対して強い力を有しているわけではない。だからこそ彼らは残虐な行為に及ぶのだ。

同上

「個人的な立場では、そんなに簡単に引き金はひけないと思うな。人が人を簡単に殺すときって、必ず、もっとなんていうのか、妄想的な力がバックに存在している」
「妄想的な力?」
「うん、つまり、神とか、国家とか、あるいは組織とか

「そう……、そうですね」
「そういう力に、自分は後押しされている。それで自分が動いている。自分はその使徒なのだ、と解釈して、引き金をひく。だけど、けっしてそうではない。その妄想を作り上げたのも自分だし、すべては自分の責任なんだ。ただ、そうやって責任を自分の外側にあるものだと偽って、人を殺そうとする」
「何故、殺そうとするのでしょうか?」
「さあね……、でも、たぶんそれは、殺したいという気持ちがあるからだと思うな。破壊したい、むちゃくちゃにしたい、そういう感情が人間にはある。それがいけないことだ、という社会的観念が、こんなにも強固に作られたことが、裏返せば、その純粋感情の存在を証明していると思う。人間は理由があるから殺すんじゃない、殺すための理由を探すんだよ」
「ああ、嫌だ」西之園は首をふった。躰中が僅かな悪寒に包まれるのを振り払いたかった。

「第4章 悲しみの高まり」p.214-215(森博嗣εに誓って』)

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同じ思考を繰り返していると、その思考が強化される。

パブロフの有名な実験では、犬に餌をやる前に声をかけるだったか鈴を鳴らすだったか、餌と直接関係のない刺激を犬に与えるという一連の動作を繰り返し行う。
食事と特定の音とが犬の頭の中で強固に結びついて、その音を聞いただけで、餌を出していないのに犬は涎を垂らすようになる。

犬の例はもっと単純で通俗的ですが、原理は同じだと思います。
正確な用語は知りませんが、無秩序に茂るジャングルに轍を踏み固めていくように、特定パターンのシナプスの反復的な発光がニューロンの結合強度を高める、といったこと。

ただ、反復によって強化される「思考」、これは何を指すのか。
僕が想定しているのは、風景に結びついた記憶とか、音楽が呼び覚ます経験とか、五感を(直接に)介在する場合ではありません。
ある思考が、その思考が開始されるといつも、同様の経路に従って特定の結論に落着する。
たとえばそのような思考を「強化」されたものと考えます。
だから、その思考の中に間接的に五感が含まれる場合はある。


想定するというか、こうだったら面白いなと思うのは、その思考が具体的であるほど反復によって強化されやすいことはイメージしやすいのですが、より抽象的な思考のレベルにおいても同様の強化が起こらないだろうか、と。

「思考のクセ」というのも、一つの抽象のレベルです。
物事をなんでも構造主義的にとらえる(ことができる)、とか(僕は内田樹氏がそういう人だと思っています)。

あるいは、これが本命なんですが、「連想的思考」という抽象のレベル。

思考の飛躍によって特定の対象にリンクする可能性の強化ではなくて、思考が飛躍すること自体の発生頻度の強化

これも思考のクセの一種なのかもしれませんが、もっと抽象性の高い次元のことかもしれません。


そういうことがあるとして、そのような強化が極端になされた人間がどうなるかといえば、分裂症というよりは、無私に近くなるのでないかと想像します。
いや、分裂症と無私とは、そう変わらない精神の状態ではないかもしれません。
自我の統合を振り切って「私」が分かれていく、その「別の私」の数をカウントできる間は分裂症と呼ぶ、そしてさらに分かれ分かれて、制御どころか分類すら不能となる。
無数と思える各々は手が(誰の?)届かない地点に達し、なおかつ各々は周りなど素知らぬ顔で落ち着いている。
『24人のビリー・ミリガン』という本をタイトルだけ知っていますが、24ではまだ足りないのでしょう。

それは、24が素数でないことから明らかです。

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極北

極北

εに誓って (講談社ノベルス)

εに誓って (講談社ノベルス)