human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-3 明けない夜に、空けないウィスキー

 
ティーチャーズを飲むのは今日が初めてだ。
スーパーに置いてあるものでは、シーヴァス・リーガルとジャック・ダニエルが好きだという記憶がある。
ただ、初めてウィスキーを手に取った大学生の頃に飲んだ安酒も、味は覚えている。
今好んで飲む気にはならないが、口にすれば、懐かしさが広がるだろう。


シングルモルトブレンドウィスキーの、どちらが好きということもない。
前者はクセが強く、後者はバランスがとれている。
だから好悪がはっきり分かれるのはシングルモルトの方だ。
一方のブレンドは、大体においてそつがなく、それを特徴がないとも言える。
優れたブレンドウィスキーは優れて上品だが、それを特徴がないとも言える。

シングルモルトで記憶にあるのはアイラウィスキーの、ボウモアラフロイグ
ボウモアは一口舐めるだけで、強い磯の香りが舌を突き抜ける。
初めて飲んだ時、それが磯の香りだと言葉になる前に、養生テープを連想した。
当時働いていた研究所で、やけに海苔くさい緑色の養生テープを使っていたからだ。
でも、養生テープから思い直し、磯を認めると、海辺の蒸留所に並ぶ樽が思い浮かんだ。

強い芳香は、瓶の封を開けると急速に薄れていった。


ラベルにクリームという言葉があって、なぜかバターフレーバーを期待した。
いや、期待ではなくただの連想で、その連想の面白さで買ったようなものだ。
ここ数年、自宅ではウィスキーではなくハーブリキュールを飲んでいた。
だから、初めてのティーチャーズは、数年ぶりのストレートウィスキーでもある。

最初の一口、スモーキーな香ばしさ。
悪くない。

 × × ×

「問題意識はあるんだよ」
 フェンネルは弁解するように言う。
「うん。でも、何が問題なのかが分からない、と?」
「そうだ。いや違う」
「どっちだ?」
「……」
 セージは腕を組み、俯いている。その目は閉じられている。
 フェンネルは猪口にウィスキーを注ぎ、ちびちびと飲む。猫がミルクを舐めるように。
 沈黙。

 フェンネルはセージを見るともなく視界に入れている。首を左右にひねって、音が鳴るのを確かめる。
 セージは目を開け、その動きを観察する。なぜか微笑む。苦笑いかもしれない。
「首が凝るような話だよな」
「いや、違うんだ。君の姿勢を見てると、首が固まってくる気がして」
 一度解けたセージの微笑が、倍加して戻ってくる。
「ああ、僕の代わりにストレッチしてくれたわけだ。あれだろ、君の好きな…」
ミラーニューロン
「そうそう」
 フェンネルは景気良く首を回す。セージにその音は聞こえない。

「それで……」
「うん。話はとても複雑なんだ」
 フェンネルは眉間に皺を寄せて考える。しかし、何かを待っているように動かない。
「言いたいことをすぐにパッと言えるような事柄ではないのだろう。とっつきやすい所から少しずつ言葉を積み上げていって、その過程のどこかで自分が問題にしていたことがポロっと現れる。それを君は…うん、期待しているわけでもなさそうだな」
 セージの目の前にもウィスキーが注がれているが、彼は一度も手にしていない。酒は思考を促進する道具にはならないと思っているのだろう。
「なんだかね、セージ。これまでずっといろんな本を読んできたけれど、どうもね、何かが変わってきたようなんだ。突然のことなのか、つまり何か節目があったのか、それかその変化がゆっくりと進行してきたのか、どちらかは分からない。いや分からないでもないんだが…それは今は問題じゃない。何が変わったか。本に対する態度か。いやむしろ逆なんだ。本は、読書は言葉のインプットだろう、その逆のアウトプット、僕が変化を自覚しているのはこちらの方だ」
「喋ったり、文章を書いたり、といったことが、昔と比べて変わった?」
「そうだ。なんというか…受け身になっている。いや、もともと僕は総じて受け身で、話すにしても書くにしても、きっかけなり、アプローチなりを経て始まるのが自然だと昔から思っているから、受け身であること自体が新しい事態ではない。その受け身であることの、度合い…じゃないな、質が変わったようだ」
「ほう。具体的には?」
「それがすぐ言えれば世話はないんだが」
「それはそうだな。まあ、ゆっくりやればいいさ」

 セージは目の前のグラスを手に取って、カラカラと氷を鳴らす。
「夜は長いんだ。なにせ、明けるまではずっと夜だ」
「なんだい、それは。なにかの謎かけ?」
 セージは顔をグラスに向けたまま、目だけでフェンネルを見つめる。
「君の夜、精神の夜。君は夜が好きなんだろう」
「昔は好きだった。学生の頃はね。外が暗くなると、さあこれで自由だ、なんでもできるぞと思ったものだ」
 フェンネルの中に、新たな問題意識が生まれる。唐突に。
「しかし今は……好きとか嫌いとかではなくなったな。うん、君の言う通りかもしれない。夜は、有無を言わさずここにある。対象化の範疇外のものとして。そうか、僕は今、夜なのか」
「それをメタファーでなくとらえることが大事かもしれない」
「?」
現実に夜と呼ばれているものがメタファーかもしれないということさ」
「わからないな、それでは」
「考えればいいさ」
 セージは真面目だ。何の意味もない言葉を並べて面白がるような男ではない。話が抽象的過ぎるのだろうか。
 あれ、そういえば元は何が問題だったか…。
 まあいいか。
「そうだな。明けない夜はないと言うが、はたして"本物の夜"が明けるのかどうか」
 それも、どちらでもいいことだ。

 猪口にもグラスにも、ウィスキーが残っていた。
 ストレートのまま、あるいは水割りになって。