human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

自覚を研ぎ澄ませた無垢(はまた今度)、電車スマホの異常空間における共同幻想について

 読みながら、この人なんで「普通」ってことにこんなにこだわってるんだろう、ってそばにいたノボちゃんに呟いたら、ノボちゃんは、「こいつの言う『普通』ってのは、人が人の目を意識しないでとる行動、だから覗き見して初めて見られる他人のナチュラルな行動のことなんだよ。ジェネラリー、つまり、一般的って意味じゃないんだ」「でもなんで」「だって、明らかにつくったって分かるより、そういう『どっきりカメラ』みたいなものの方がリアルで刺激があるからよく売れる。金になるからさ」と、にべもなく言い放った。

梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』理論社

ここの文脈は、「普通」という言葉が間違って使われながら、その本来の意味によって間違った用途がまかり通ってしまう、そういう問題についてのものです。

「インジャの身の上に起こったこと」という章の中からの抜粋で、インジャとは「隠者」のことです。
偶然、ではないと思いますが、鎖書店の商品に追加しながらもすぐに売れないことを祈って再読している『民衆という幻像』(渡辺京二)でも最近目にした言葉。
渡辺氏の某大学の(あるクラブに入部した)新入生に対する講演録では、「これから社会に出て行く君たちは、モラルなりスキルなりの社会性を獲得して就職していくが、そのなかで、自分の中のどこかに『隠者としての心(思想)』を住まわせておくことは、君たちにとって必ず力になる」という、渡辺氏自身は物書きと予備校のバイトで食いつないでいる自称隠者だが、学生に隠者になること自体を勧めるのでなく「精神的な隠者」の居場所をつくることを提唱している。

そのこと自体は僕の心にも響くわけですが(いうなれば現在の僕も隠者のようなものです)、これから書こうとするのは、また別の話。


抜粋した中の下線部を読んで、僕のなかの「問題意識の引き出し」にいつも入っている一つのテーマ、「無垢への憧れ」のことを連想したのでした。

無垢が無自覚ではいられなくなった現代社会。
その構造の理解までは、これまでしていましたが、抜粋部から考えたのは、「変貌を遂げた無垢」の気持ち悪さ、その原因としての言葉の誤用、そして、あるかもしれない「自覚を研ぎ澄ませた先にある新たな無垢」について。

うまく説明できるかわかりませんが、書いてみます。

 × × ×


「覗き見して初めて見られる他人のナチュラルな行動」

これが「普通」という言葉で語られることの破壊的影響(言論空間、くだいて言えば普段僕らが使う言葉の感覚に対する)について梨木氏は書いているのですが、進路を僕の連想にとれば、これを「無垢」と呼ぶこともできる。
そして、本来はというか、「呼ぶことができる」というのは、無垢の把握方法として「覗き見」が例外的な形態であるからこその可能性のニュアンスが込もっているのですが、もしかして、この「本来」は時代遅れの過去の遺物となったのかもしれない。
シンプルに言い直せば、現代では「無垢には覗き見を通してしか出会えない」。

その理由は、監視社会、高度情報化、動画サイトの興隆と日常的な鑑賞、「インスタ映え」、等々、思いつくところはある。
僕が書いておきたいと思ったのは、この3つ目に関することだが、スマホの存在、場所を選ばず使用者を夢中にならしめているそれについて。


電車の中で起きている人のほぼ全てがスマホを見ている状況、あるいは器用に障害物(彼にとっては通行人も「物」だ)を避けながらスマホを手に歩く、自転車に乗る人々。
こういったことにいつまで経っても慣れず、気持ち悪いと思わずにはいられないのだが、いつだったか「この気持ち悪さを見失ってはならない」と思うようになった。

ただ、日常的に存在する、つまり生活の中で高頻度で出会う気持ち悪さは、そのまま放っておくことができない。
不快に対する慣れは、感覚の鈍磨でしかない。
みんながそうしているから自分も仕方ないがそうする、そうやってお互いに無神経になっていく人々を責める気はないが、僕はそのような彼らとそうでない人々とを直感的に判断できる感覚を維持していたいし、そうしてセンサーが感知すれば僕は彼らから遠ざかるだけのことだ。
ただ、そうした回避行動はいつでも成功するわけではないし、何より彼らの「集団行動による安心感」の裏側に自分を位置付けることになる。
つまりは、思い込みによる不安、被害妄想といったもの、いつもそれらに直接結びつくわけではないが少なくとも種となり、別のきっかけによって芽吹いてしまうネガティブを背負う立ち位置。
それを敢えて引き受けるために必要なもの。
それこそが言葉であり、場当たり的でもなく、人付き合いの潤滑剤でもなく、他人を操るための功利的な論理でもない、他ならぬ自分自身を説得し、覚醒させるような言葉。

話を戻す。
前に、スマホの気持ち悪さはそれが自分の部屋で使うPCと同じことにある、と書いた。
本来なら他人の目に触れないプライベートな空間で扱うはずの機器を、公衆の面前で臆面もなく使う。
その意味では、電車の中でする化粧も同じだ。
ただこれは程度の差であって、パカパカ時代のケータイだってそうだし、本や新聞を読むのも、それらと本質は変わらない。

しかし、程度の差は、ある時には質の転換をもたらす。
起こっているのは、これも前に書いたが、ジャージの上下でSAをぶらつく家族が放つ気持ち悪さ、これと同じである。
もとは内田樹氏のブログにあった話で、これを書いた以前の記事を抜粋しておく。

「(…)高速道路のドライブインなんかに行くと、ジャージ姿で歩くカップルや家族連れなんかを見かけますが、あれは家族の車が彼らの家の一部屋と認識されていて、だから彼らにとっては近所のコンビニから車で一時間かかるドライブインまで、"家に居ながら"移動できる場所はどこでも家の庭にいる感覚なのですね。きっちりお出かけの準備をして家を出発してきた身からすれば、それがなんとも異様な光景に見えるわけですが」

Led Lake, Moon Magic - human in book bouquet

ここにある違和感、上で何度も使った「気持ち悪さ」は、いくつか言い方がある。
他人のプライベートな状態が人前で露わであること、見たくもない生々しいものを見せつけられること。
彼らの周りには誰もいないかのように振舞われること、そうして自分が彼らにとって人としてカウントされていないと思わされること。

例えば、高速のSAがジャージやパジャマを来た人々で埋め尽くされた場面を想像すれば、何事かと思うだろう。
極端に言えば、その「何事」が、電車の中で、あるいは歩きスマホが行き交う通りでは「普通のこと」になってしまっている。

ここまでは僕にとっては復習であり、ぜひ言葉にしなければ、と思ったのは、この先である。


自分がある行動をとる根拠を、行動の内容に関係なく外部に求めること。
これは一つの幻想である。
その外部が「みんながそうするから自分もそうする」という理由である場合、その幻想を共同幻想と呼んでもよい。
幻想とは脳の中の出来事だ。
ただ、「内容に関係なく」と書いたものの、共同幻想が純粋にイマジナリーな性質をもつか、あるいは幾分か人間の感覚(身体性)に従ったものでもあるかは、幻想の内容によって違ってくる。
たとえば、劇的な集団心理の一例としてライブ会場の観衆を考えれば、歌手の歌や演奏に触発されて会場にいる一人ひとりが、自分が会場そのものであるような、観客みんなが一体になったような盛り上がりを見せることがある。
これは、演者という触媒がいて、それを共同幻想の中心だと言えなくもないが、単純に群集心理の結果である。
つまり、この例では幻想が純粋にイマジナリーではない、あるいは身体性によって共同幻想が支えられている、とも言える。

僕が思うのは、スマホ操作者で埋め尽くされた電車内空間は、身体性の支えがない共同幻想によって支配されている、ということ。
身体性という視点で状況を言い換えれば、そこでは「さあ、みんなで鈍感になろうぜ、みんなで『周りに誰も人なんていない』って思い込もうぜ」という認識を強要される。


思えばこれは、満員電車で平常心を保つには必要な幻想かもしれず、大勢の人が集まる都会においては昔からあったことなのかもしれない。
でもやはり違う、昔からあった状況が今も続いているだけ、というのではない。
満員電車は「異常な状況」だ。
都心の電車通勤者にとって日常であっても、それは日常における異常であるはずだ。

SONYウォークマンをはじめ、その異常空間から少しでも苦痛を取り除こうという意思が、技術者側にあったかは知らないが、それを使う当事者には、あった。
(結果として、ということだが)その流れが来るところまで来て、異常を「異常でないもの」にした。

ある異常な環境が異常でなくなったかわりに、
その環境にいる人間が異常になり、
その環境にいない人間までもが異常になった。


解決策なんてない。
ただ回避するだけである。
それがグラスルーツだというのは、異常を回避する人間が増えれば、ただそのことによって(「みんながそうするから自分もそうする」というプラグマティックな原理によって)環境が変わりうるからである。

隠者にそれは、なし得ない。
だから「隠者の心を持て」ということだと思う。

 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。自分基準(スタンダード)で「自分」をつくっていくんだ。
 他人の「普通」は、そこには関係ない。

梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』

…「別の話」のはずが、繋がりましたね。

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僕は、そして僕たちはどう生きるか

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