human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

毎日新聞(1/26 日)と「宇宙空間の豚さんたち」

 
面白い哲学書においては、論題が抽象的でも、その議論が日常生活と有機的にリンクされています。

僕の思う「有機的に」というのは、生活のこまごまとしたことに対する認識を変えたり、些事が新たな意味を獲得したり、あるいは哲学(的思考)そのものが生活の一コマになる、そういった作用を起こすということです。
哲学議論がどれほど途方もなく、また「こじつけ」というか、言葉遊びに見えたとしても、それらの性質と「哲学の有機性」とは、直接には関係しません。
言葉遊び、とか机上の空論、という評価は社会が滞りなく(もっといえば「効率的に」)運営されるうえで採用している通念に基づいた価値観がなすものであって、哲学がその価値観を根底から疑うものであることから社会通念が脊髄反射的に生み出すレッテルに過ぎません。

そのことの言い換えですが、哲学は社会通念的価値の「お株を奪う」ものでもあります。

社会が定義する「必要性」、ここでいう社会とは分かりやすくは消費至上主義社会ですが、この必要性を人々が認めることで、経済が回っています。
ほんとうは必要性を訴えるのは個々の(でも多くは巨大な)広告主体ですが、人々の多くが自然にそれを受け入れることでその必要性が当たり前とみなされる、だから(しまいには)「なぜそれが必要なのか」という根拠や経緯が問われなくなる、そこで敢えて聞かれれば「そりゃもうそうなってんだから仕方ないよ」と面倒臭そうに答えるしかないような状況、これを「社会が必要性を定義している」と表現することもできます。

哲学はその「必要性」に問いを投げかけます。

「必要性の検討」では通常、ポジティブな結論が行動面ではネガティブに現れます。
それは「これは本当に必要なのか? もしかしていらないのではないか?」を吟味することで、検討に対するイエスの回答とはすなわち「これは不要である」の認識に落ち着くことである。

一方で、これは僕自身の印象論ですが、この「必要性の検討」が「これは自分にとって必要なのではないか?」というポジティブな行動を引き出す場合、その姿勢は「消費のための消費」という消費の自己目的化を連想させます
そう思うのは、僕自身に「必要性というのは本来、頭を悩ませて判断することではない」という認識があるからかもしれません。
…いや、この本来性は動物的なもので(つまり身体的なものということ)、世の中が複雑になって予定や計画なしに生活が成り立たない現代社会においては成り立たない前提のようにも思います、が、
これはその複雑さが、人を"生かす"目的で人が設計したシステムによっていつの間にか"生かされる"ようになった段階に至っての「揺り戻し」ではないかとも考えられる。
…すみません、話がごたついたので、本題へ戻るべくいったん切ります。


まだ本題に入る前のまえおきでした。

少し前から読み始めた『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)は、毎週日曜の朝に読んでいます。
なかなか面白くて、いろいろと考えてしまうのですが、それが新聞を読む前なので、新聞の記事を読んでいるあいだにも、その哲学書への連想がはたらきます。

今日はその話。

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ケース・バイ・ケース、とよく言います。

 事前に想定できない状況が起きれば、その時その場で対応するしかない。
 マニュアルに書き切れないことは、個々の現場の人間に判断が任される。

それは臨機応変ということで、その時その場で手近なコトモノを使って解決を導くという意味ではブリコラージュでもある。

今週もまた、毎日新聞別刊の「日曜プライムくらぶ」にある、梨木香歩氏の「炉辺の風おと」の記事を読んで考えたことです。

この連載は長く続いているようで、以下のまとめサイトによれば、テーマが変わるごとなのか、一定期間ごとに小タイトルが変わっていて、いまは「秘(ひ)そやかに進んでいくこと」になっています。
nashikikaho.blogspot.com
なにが「秘そやかに進んでいく」のか、氏の文章を読む僕はいろいろと想像するのですが、氏は自身の人と交わる生活の中で、やりとりその場では感情が激することもありながら、その「なにか」について想いを巡らせて書かれていると感じられる、文章の筆致には静けさが満ちている。

その文章の中で、「マニュアル的な誠実さ」といった表現がありました。

こう言われて、経験した具体的な場面をいくつか思い出すかもしれません。
そうでなくとも、ドラマや小説で見たような絵を想像するかもしれない。

でもこれはたぶん、矛盾しているのです。
この表現に違和感がないとすれば、それは言葉の意味が変質したからです。

そこからケース・バイ・ケースのマニュアル化という言葉を思いつき、今書きながら、これは上と同じ矛盾を抱えたものであると気付きました。

マニュアルには明記できないはずの状況・対応についてまでマニュアル化される。
それはマニュアルが厳密であるとか、想定ケースが複雑多岐にわたるとか、そういうことではありません。
マニュアルを作成する人間が、それに従うべき人間を、限りなく完全に管理しようとする。
個人の事情はさておいての、会社の論理でいうリスクマネジメントの発想を徹底させたもの。

そういう志向が、ここにはある。

 × × ×

『なぜ世界は存在しないのか』を読んでいて、クスッと笑える場面がいくつかあったのですが、第3章まで読んでいちばん面白かったのが「ブタートレック〔Pigs in Space〕」の話でした。

これはアメリカの子供向けのテレビ番組『マペット・ショー』の中にあるコーナーの一つで、番組タイトルからして人形劇だとは思うんですが、著者によればこのコーナー(邦訳すれば「宇宙空間の豚さんたち」)は「科学的世界像」(これを「存在論的に間違った世界像」と著者は指摘しています)に関する優れた知恵を見せてくれる、と言います。

この「豚さんたち」の哲学的なエピソードは長いので省略しますが(でも表現が可愛いのでタイトルに入れてみました)、ガブリエル氏は豚さんたちを手がかりに「科学的世界像」について、「外界が存在するとともに、それと並んで、わたしたちが外界についてなす表象が存在するのだという想定」であると書いています。
また別の言い方として、この「外界」という概念は、「あたかも自分のそとに世界があり、自分がある種の部屋や映画館にいて、そのなかで現実をながめているかのように見えてしまう」ことから生じる、とも。

「地球という客観的で物理的な世界は、自分(人間)存在とは何ら関わりなく、存在している」

このような科学的世界像が人々に自然に受け入れられてしまうのは、自分の経験とか、人生などは結局は幻想であるという印象を我々が根底に持っているからだ、氏はそう主張する。


「科学的認識の根底には幻想がある」というこの話を読んで、僕は岸田秀の「唯幻論」を連想しました。
それは別に意外でもなくて、現に『唯幻論論』という岸田氏の対談集をいま併読しているからなんですが、この連想は僕に「へえ」と思わせる認識をもたらしたのでした。


「この世のすべては幻想に過ぎない」と一言でいえばこうなる唯幻論が、唯心論なのかポストモダニズムなのか、僕自身あまり学問的な理解をしていないのでここで正確に説明はできませんが、僕の認識では「全ての価値は相対化である」とするポストモダン思想に含まれています。

 ポストモダニズムは、全ての価値を相対化した。
 でも、人間は絶対的なものを求める志向をもつ。

唯幻論の範疇にはもちろん、科学主義も含まれています。
科学とは、理論構築と実験による検証によって永遠に更新されていく、積み上げられた仮説であって、相対的なものである。

ところが、上述の「科学的世界像」が人間の認識の根底に幻想として張り付いていることは、唯幻論が科学主義に吸収されることを示唆しないだろうか、と思ったのです。
わかりやすくいえば、こうなるでしょうか。

 「人間の知覚も思考もすべては幻想だ。
  現象を事実として客観的に記述する科学だけが実在する」

「科学が実在」とはどういうことだろう、と誰しも思うでしょうが、このように文章として表すと妙だなとすぐ認識できるものが、実際のところ僕らがふだん生活するうえでの価値観というのか行動原理(これは実際的なものです)のおおもとにある考え方においては、このように論理的に混乱した形で存在するのではないか。

もしそうだとすれば、哲学とはこの混乱を明るみに出す営みである、と言えるでしょう。
そうして哲学が何をもたらすのか、それは「そこに立った者」にしかわからない。

人は哲学に正しい道や救いを求めますが、哲学が人を導く先はつねに「入り口」だからです。

 × × ×

梨木氏の連載記事を読んでいて、「豚さんたち」へ連想が及んだのでした。
それをそのまま並べて書いてみたのが上の通りです。

2つの話がどう繋がるのだろうか、と少し考えてみて、別のことを思い浮かべました。


僕は「システム」というものに強い関心を持ち、これまで何度もブログに書いてきました。
これのちゃんとした定義ができたことがない(記憶がない)ように思いますが、村上春樹氏のメタファー「壁と卵」(@イスラエル文学賞講演)を借りて、ここではシステムとは「壁」である、としておきます。

 一人の人間の前に立ちはだかり、
 回避不能かつ圧倒的な、
 しかし人が認識できるとは限らない、
 (時間的かつ空間的に)不明瞭な影響を及ぼすもの。

…何を言っているのかさっぱりですが、定義はさておきます。


ふと僕は「言葉」もシステムではないのかと思いました。
言葉はシステムとしての要件を十分に備えている。

人は言葉をツールとして、コミュニケーションや記録といった目的のために用いる。
人は言葉を使う。
でも時に、人は言葉に使われることがある。

「悲しいから泣く」のか、「泣くから悲しい」のか。
例えば人が言葉に使われるとは、このうちの後者のような現象を指します。

そして、人が言葉に使われることがその人(やその周りの人々)にとって致命的になるのは、その人に「言葉はシステムである」という自覚が欠けている場合である。

これは逆の言い方(「自覚が状況を救う」)もできます。

そしてまた、繰り返しになりますが、
自覚によって人がたどり着けるのは、ただ「スタート地点」であるところの場所です。

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)