human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「科学的合理性が外部環境となる未来」のためのABC

 
内容的には前記事の続きです。

夕食の前の3時間ほどで前記事を書き上げ、
いつもは読書しながらの夕食を何も読まず音楽だけで食べて、
その間に書いた内容を反芻していたらまたいくつか思いつきがありました。

 僕にとっては内田樹が、自分の読書世界を広げてくれた最初のメンターなんですが、
 じつは内田樹(が喋っているの)を実際に見たことが一度だけあって、
 それは奈良のどこかのモダンな(県立?)図書館でのことで、
 「現代の図書館の存在意義について」だか、そんな感じの題目で、
 「講演会場に入って演題の張り紙を見て、今日のタイトルを思い出しました(笑)」
 という(いつもウチダ氏のブログで書いてる通りの)すっとぼけた出だしで、
 その中の話に「人がよく思いつきをする三つの場所」というのがあって、
 昔の諺なのでその3つというのは「枕上(寝てる時)、馬上、厠上」だそうです。

…って、あれ?
この3つに「食事中」というのが入ってた気がして(そもそも「上」ですらない)、
そのために長々と関係ない昔話をしていたんですが、違いました(笑)。

まあいいや。

先の記事が、
一度書いたあと(の食事の後)に二箇所(心理療法の話と註の部分)を追記して、
文字数を見たらおそらく15年以上前にブログを始めて以来最長の9000字超えで、
はわわー、
というかシンプルに疲れただけなんですが、
思いついた面白いこと(タイトルのことです)をまだ書き切れていないので、
頑張ります。

疎経活血湯飲んだのはいいけど、腰痛悪化しそうだな…

 × × ×

先にABCとは何かを書いておきましょう。

 A : アフォーダンス(Affordance)
 B : ブリコラージュ(Bricolage
 C : コンヴィヴィアリティ(Conviviality)

キーワード的にそれぞれの概念の創始者を挙げておくと、
それぞれジェームス・ギブソンレヴィ・ストロース、イヴァン・イリイチです。

最初の発想はなんだったか忘れたんですが、
僕自身の生活思想の中で重要なキー概念をいくつか思い浮かべた時に、
おっ、これABCじゃん(なぜか標準語)、と思ったのがきっかけで、
このABCを、単に僕にとって重要というだけでなく、
なにか論理的に繋げて「〜のためのABC」にならないかな、
といったことを数日前に思ったんですが、
さっきの食事中に「それ」を思いついたので、
じゃあ書いてみよう、というのが本記事の趣旨です。


前の記事で、
 心の時代の"次"は「合理性を超える」、
なんてことを書きましたが、
これは書く前ではなく書きながら思いついたことで、
なぜそう思ったかには成り行き以上の理由がないのですが、
まあそういうものだとして話をさらに乗せていきます。

この「合理性」というのは、
 唯脳主義(唯脳論)、
 唯物論(すべては科学で説明できるという立場としての)、
 科学主義(自然主義、科学万能主義。あれ、唯物論と一緒?)、
などなど、大雑把すぎてとてもイコールでは結べないのでしょうが、
まあこれらとそれぞれ深い関係を持つもので、
代表して「科学的合理性」としておきます。

ええと、話とっちらかってますが、

前記事では安田登氏の言葉と自分の連想を勝手にくっつけたんですが、
心の時代(つまり現代)の次の時代を、
僕は「現世」(目指すべき未来)命名しました。

そしてこの未来としての「現世」とはどういうものか想像したとき、
そこでは「科学的合理性」が神妙にそして忠実に「便宜的合理性」として機能する。
(と考えたのはもちろん、河合隼雄氏の言葉からくっついたからです)

その一つのあり方が、橋本治の言う近世思想のような、
「非合理な神が合理性とは関係なくいて、人はそれでも合理的である」社会。
当然、それは科学を神と崇めるのではなく(そこにいるのは「合理的な神」ですね)、
合理性を棚上げする、「かっこに入れる」姿勢が常識としてある。
つまり、個人の価値観ではなく、社会(あるいは経済)の動力として、それがある。


いいですね(具体的にはぜんぜん想像つきませんけど)。
なんか、ほっこりしませんか。
現代的な生活水準で、近世思想を基盤として暮らす。
最近のSFって、ディストピア志向のものが多いですけど、
こういう未来を想像すれば、現代でもユートピアSF描けるんじゃないですか。

 × × ×

それはさておき、
では本記事タイトルにある「外部環境」とは何か、に移ります。


これは、ルーマンのシステム論における「環境」からの拝借です。

といって、僕自身の理解が非常に怪しいので、
あまり内容の正確性に関しては信用せずに、話半分で聞いてください。
加えて、この(「環境」の)思いつきはこれまで以上に「思いつき」で、
話として繋がるかどうかも書いてみないと分からない出たとこ勝負です。

(かなり弱気だなあ)


システムは、そのルールが存在すればあらゆる階層に見出せます。
個人の意識から、集団心理、諸学問や政治や倫理などをはじめ、
一国の運営や多国間協調、世界の(流通や情報)システム、等々。

各々のシステムには、構成因子があり、(外部)環境がある。
当然ながら、そう言った時、環境は構成因子ではありません。

環境はシステム内に影響を与えないわけではない。
が、環境がシステムに取り込まれるのは、システムの価値観に従ってのことである。
逆にいえば、システムは己の外部環境を、己の視点でしか捉えることができない。


これは、当然のようにも思えます。
人間の主観というものを考えれば、自然科学の客観性も一つの仮説であり、
合理性というルールに最もフィットする面で最有力な主観である、
というのが「客観性」の意味です。

だとすれば、現代人は「自然科学という客観性のメガネ」を通してものを見ている。

「自分がいてもいなくても、自分以外のものは変わらずそこにある」という認識は、
事実というよりは、その「メガネ」を通して見た「仮説としての事実」です。
だから、「自分がいなくなれば全ては消滅する」という認識があってもよいし、
それは実際存在するし(唯心論かな?違う?)、その認識には「実感」が伴いもする。

「環境がシステムの構成因子ではないこと」、
これにも意味があって(というのもそれが環境と因子を分ける意味だから)、
重要なはずなんですが、…ちょっと忘れちゃいました。
えーと…


システム論の説明が全然足りないんですけど、それはひとまずおいて、
話を「外部環境としての科学的合理性」に戻します。

合理性に意味がなくなるわけではなく、それをなおざりにするわけでもない。
ただ、「現世」において合理性は社会的価値の便宜に過ぎず、それは例えば、
現代社会において環境問題が(今のところ)産業主義の便宜に過ぎないようなものである。

産業主義・生産至上主義システムにおいては、環境問題(地球環境)は「外部環境」です。
(経済学の「外部効果」という概念がここで理解の助けになります。
 チッソ水俣川を汚染して経営が成り立ったのは、有害物質の自然排出が影響を与えたのが、
 産業経済システムにおいては何ら価値を(つまり正も負も)持たない「外部」だったからです)

あ、これはいい例かもしれない。
ので、ここを起点に掘り下げてみます。


環境問題は、人類の未来の生存率に関わる意味では死活的に重要なはずですが、
それを重要な価値とみなす主体は、「今後数百年は生きたい現人類の子孫たち」です。
あと二百年はもつ環境資源が、現代の濫用であと百年に縮まったからといって、
現代人が自分の代(自分の孫まで含むとしても)を謳歌するうえでは問題になりません。

環境問題が「便宜」であるというのは、
「未来の人類のことも考えないといけないよね」という「考え方」を、
現代人が社会を謳歌するうえで邪魔にならない限りにおいて考慮する、
(たとえば、子孫への配慮が自分の幸福につながるのであれば、それをする)
という程度には問題として捉えられている、ということです。

それがよいか悪いかは別の話で、
過去の人類が同様の発想を持ったかどうかも別の話です。

「便宜の対象」とされたものに対して、その取り扱いは、
そのものの論理よりも「便宜の基準」の論理を優先して為される。
その「便宜の基準」がどこにあるかといえば、現代社会では産業主義だということです。
そして、その「便宜の実効性」を担保するのが、合理性なのです。

これで、現代社会における「便宜」と合理性の関係が言えたと思います。


話が戻ってきまして、
僕が(概念として)構想する未来社会「現世」においては、
合理性が「便宜の実効役」から「便宜の対象」に格下げされる
ということです。
(やはり具体的な想像がしづらい話だ…)

たとえば、
神の名においてラッダイト(産業機械打ち壊し)運動が推進されたり…
するのだろうか??

ああ、
太陽の塔』(森見登美彦)の名場面の、
「京都四条河原町交差点ええじゃないか騒動」
なんてのは、
一つのユートピアじゃないですかね。
(「騒動」といっても、アーケード街の店が襲撃されるとかではなくて、
 イチャイチャしてる男女カップルをヘタレ大学生集団が引き剥がしにかかる、
 とかそういった平和的な(そうか?)感じだったはず)


…うーん、
「現世」の具体像はまた、木を見て森を見て深めるとしまして、
そろそろ序盤に放り出したままのABCの話(じつはこっちが本題)に移ります。
さすがに体力が…(もう7時間くらいキーボードと格闘している)

本題なんですけど、もう、サクッといきましょう。

 × × ×

件のABCを再掲します。

 A : アフォーダンス(Affordance)
 B : ブリコラージュ(Bricolage
 C : コンヴィヴィアリティ(Conviviality)

これらも僕自身の理解(と連想)をもとに話を進めます。
僕は、これらの概念が、
科学的合理性(の猛威)を緩める
また似た視点ですが、
要素還元主義から「全体性の回復」に方向転換するための、
キー思想となると考えています。
(「全体性の回復」というのは…ゲシュタルトとか、学際主義とかを想像してください)

それぞれを掘り下げます。


アフォーダンス
 生態学ギブソンの提唱した概念。
 人間が己の内なる意思で周囲環境に影響を与える(利用する)行動を起こすのではなく、
 周囲環境(の配置や流れや光学的効果)が人間の行動に影響を与える(時に無意識に)、
 という、人間の主体的行動原理に対する逆転の発想をもたらした。

アフォーダンスの概念は、人の主観の限界性や、人と環境との相互作用、
意識下の運動行為などに焦点をあてることを通じて、
人のシンプル(素朴)な主観的思い込みを解除する可能性を持ちます

しかもそれを科学的合理性の手続きにおいて行うことができる…。

という認識は生態学の建前だと思うのですが、これは別の見方をすると、
科学的合理性が今まで踏み込まなかった領域を、科学の看板を携えたまま切り開くということで、
古くからある泰然と専門分化されている科学分野にとってそれは「いかがわしい領域」でもある。

…ちなみに、本記事のテーマを念頭にアフォーダンスを考えたとき、
僕は「借景」という言葉を連想しました。
自分の家を建てる時に、周りの街並みの佇まいを考慮する、あるいは、
自分の家の庭だけでなく、そこから見える周りの建物や空も、その延長である。
正確な意味を実は知らないのですが(というか自分そういう単語が多すぎるで)、
「借景」は、自分の家や土地という概念の、その自他の境界を薄めるものだと思っています。
アフォーダンスは、これと同じ意味で、個人とその周囲環境の境界を薄めるものです。


<ブリコラージュ>
 構造主義を立ち上げた文化人類学者、クロード=レヴィストロースが、
 研究した地であるアマゾンの原住民と共に暮らした中で、
 渉猟中にいろんなものを拾って「合切袋」に放り込み、
 それを家(テント)に持って帰ってからいろんな用途に用いる、
 そういった「その場のありもので器用になんでもこなす」挙措を名付けたもの(のはず)。
 「器用仕事」などと訳される。

僕は(たしか内田樹が言ってた)「ありものでなんとかする」という表現が好きです。

現代社会でブリコラージュと言う時に、
その「ありもの」の対象範囲をどこまでにするかで議論ができると思うのですが、
つまり、個人の身の回り、とはどの範囲までのことをいうのか、ですが、
今の20代なら(という数字は偏見です)、
Amazonで注文できる商品もぜんぶ「ありもの」と考えるんじゃなかろうか。

別にそれはそれで自由なんですが、
とりあえず僕はそうは思わなくて、
スーパーで買えるものは「ありもの」とみなすにはイマイチで、
ホームセンターのそれなら、まあ及第点かなと思い、
商品としての「ありもの」の理想は100円ショップだな、などと考えます。

つまり、(もともとの)ブリコラージュの本質は、
「ありもの」を拾得した時点ではその用途がまだ判明していないこと、
(しかし何らかの用途が未来に存在しうるというかすかな予感はある)
解決すべき問題が発生した時に、
その解決手段として初めて「ありもの」が発想されること
、だからです。
それゆえ、ブリコラージュの本質が生活でそのまま発揮されるために、
アマゾン奥地のジャングルに住まずとも、現代の都市生活でもそれは可能です。

話が本筋から逸れていますので戻すと、
ブリコラージュの概念が現代で活きるのは、
個人の周囲環境に対する関心を賦活する点です。

前記事に、「自己参照」という思想の一つの側面として、
「個人や集団の自己満足と、周囲への配慮や想像力の欠如の相乗」と書きました。
この傾向は便利で快適、同時に猥雑でノイジー現代社会生活の必然だと思いますが、
その必然とは、意識して「流れ」に抗わねば自ずとそうなってゆく、といったことです。

自分の身の回り(家族や近所の人)に配慮せずとも必要なものは手に入るし、
自分の身の回り(都会の雑踏や通行人)にいちいち意識を回すと気が狂ってしまう、
つまり無関心と想像力・配慮の欠如は生存本能による努力の結果であると、
そういう風に考えることもできます。
(これは不思議にも『下流志向』(内田樹)の「消費から始まる教育」論の結論と一致します)

ブリコラージュの対象を、身の丈というスケールでの自分の身の回りに設定することで、
周囲への関心と想像力を身の丈レベルで賦活することができます。
身の丈感覚というのは、一つの統合性、ゲシュタルトです。


<コンヴィヴィアリティ>
 イリイチの概念。
 「自立共生」などと訳される。

…すみません。
さすがに疲れてきました。

そして、ABCの中ではこの「C」がいちばん、言葉として展開しづらい。
概念が広すぎるというか、いろんな他の概念とリンクするために、
自分の中でまとまった言葉になかなかなりません。
ちょうど最近イリイチの『脱病院化社会』を読み終えたところで、
その読後感から考えを広げてもいいんですが、
今の頭ではその記憶が呼び起こす気力が湧きません。。
…いや、ちょっとだけ思い出すことがあって、

『脱病院化社会』は、医療行為が原因で病気になる「医原病」を、
社会性のレベル、治療時のレベル、などいくつかのフェーズに分けて論じるんですが、
本全体に通底するのは、個人(患者)の自己治癒力を妨げてはならないという主張で、
その主張は科学的合理性に反するものでは当然なく、
そこには合理性を、社会の福利厚生の向上という便宜に従わせるパワーがあります。


続きは次回以降のいつかに委ねるとして、
今日はこの辺で…。

 × × ×