不死身(富士見)の伝統芸能「純粋暗箱形式主義」
それ以来、人々はポスト・イストワール的に硬直した世界に動きをもたらす「情念(パトス)の型」を求めてきた。失われた「生の緊張」を、改めて純形式的に、生活世界に注ぎ込もうというのである。これが、コジェーヴが分析した魅惑的現象、すなわち純形式的な評価という日本的スノビズムにほかならない。能や茶の湯を考えてみよう。日本人は明らかに、完全に形式化された価値に従って生きているのだ。その形式はどんな内容とも結ばれておらず、形式自体にのみかかわるものである。アービュー・ヴァールブルクの「情念の型」という概念を右に用いたのは、そのためだ。情念についてその表現形式というものがあるとしたら、消えてしまった情念を形式の祭儀(カルト)によって甦らせることも可能なはずである。その祭儀においては、文化とはさまざまの差異から成る秩序としてのみ存在しうるものだという意識に立って、内容を問わずに差異そのものが定められる。言い換えれば、意味は序列においてのみ存在するのである。われわれはそのことを、日本人から学べるかもしれない。シェイクスピアも、「地位はすべての高貴な企図への梯子だ」と書いている。
「3 ポストヒューマン……人間という尺度からの別れ」p.107-108 (ノルベルト・ボルツ『意味に餓える社会』)
いくつもの連想が錯綜して現れる箇所に出会ったので、とりあえず抜粋してみました。
まず整理し切れないので、思いつくそばから書いていきます。
× × ×
「純形式的な日本的スノビズム」、その例として能や茶の湯が例として挙げられています。
明示的ジャンルとしての、つまり記号的な伝統芸能は、現代日本では勢いを失っています。
が、ここに書かれていることは、そのまま今にも当てはまるだろうと思います。
赤信号 みんなで渡れば こわくない
という交通標語(だったかな?)があります。
その派生として、次のようなものもある。
崖の上 みんなで落ちれば こわくない
いかにも日本的な行動原理、抜粋の下線部に書かれているのはこのことです。
「どんな内容とも結ばれて」いない、「完全に形式化された価値に従って生きている」。
「内容を問わずに差異そのものが定められ」、「意味は序列においてのみ存在する」。
僕は、先に書いた意味ではない「日本の伝統芸能」は今でも生き続けていると思います。
形式主義、換骨奪胎的能力主義、和魂洋才、…
その性質に当てはまる言葉がすでに数多くありますが、
ある概念の類義語が多いことは、ある文化におけるその概念の重要性を示しています。
ただ、これらの類義語は、もちろん思いつきで僕が並べたもので、
それぞれの語がもつ意味の一部が、ある一つの性質に対する共通性を同じく持っている、
ということに過ぎません。
そしてここでは、複数のスポットライトが重なり合って照らすある領域、
その領域について掘り下げてみたい。
いつからか知りませんが、大昔から日本人が体得してきた性質、
ここでいう「日本」が示すのは、大陸(文化の本家・中国)から離れた「辺境性」、
そしてモンスーン気候がもたらす季節の多様性と人知に負えない天災の多様性、
こういったもので、血縁や文化よりは、地政学的、風土的な視点を持っています。
この性質を「伝統芸能」という、ひとつの能力としてとらえようとする時、
上に並べたものに、さらに加えることができます。
日和見主義、なし崩シズム、相対主義、流行(モード)主義、…
以下より、ボルツ氏の言葉を手がかりに話を進めます。
× × ×
「完全に形式化された価値に従って生きる」とはどういうことか。
その生き方は、どういう変化を、どのような展開を見せるのか。
形式とは本来、有意味な内容を広く行き渡らせるために生み出されます。
しかし、形式となって流通し始めると、含めたはずの内容が失われていく。
意味が顧みられなくなり、身が剥ぎ取られ、骨抜きされ、器だけが残る。
形骸化によって、純粋な骸となった、美しい型としての形式。
この過程で除去される内容は、美に対する夾雑物として扱われる。
では、「形式に堕す」と言われるようになった型は、このようなものか?
たぶん違う。
堕落した形式には、美が、美すら失われている。
美を創造するはずの骨抜きのプロセスが、美の堕落をもたらすこともある。
何が違うのか?
それはきっと、「西洋人にはわからない」と昔に言われていたような違い。
大正日本で弓道を志したドイツ人オイゲン・ヘリゲルによれば、
禅的な、大乗仏教的な領域の問題。
閑話休題。
その違いを言葉にする難しさに比べて、
その違いが発生する原因の分析は易しい。
ひとつは、手段の目的化である。
「行く先彼方の星を見よ」。
北極星を目指して歩み始めた者は、いつしか、
星を指差す先人の指しか見なくなる。
形式の追求が容易に堕落するのは、
たとえばその質を担保していた徒弟制が成立しなくなったこともある。
「言葉で伝わらないことを、背中で伝える」
その背中に頼らない継承システムを、近代日本は構築しようとしたはずだ。
日本人には、理念がないとされる。
欧米人との議論に弱い、という評もある。
もとは、抽象的な思考をしない文化による。
西洋が行動原理とする「概念」を、机上のことと見なす価値観。
形式主義は、この価値観と相性が良い。
根拠の曖昧な基準に従順でいられ、その基準の変化に機敏に対応できる。
個人の価値観を根底で支えるものが、確固としておらず、流動的である。
だから臨機応変、現場主義で、人災も天災になる。
責任は自分が負うものではなく、他人に負わせるものになる。
また、形式主義には、抽象性(抽象度)という尺度が適用できない。
これも、日本的形式主義に独特なものである。
茶の湯や能、武道における「型」も形式である。
これはきわめて具体的(身体的)な形式である。
世間の常識や通念、多数派解釈も形式である。
これはきわめて抽象的(脳的)な形式である。
おそらく、西洋でいう形式主義は原理主義に近いものだ。
ある絶対的な価値に基づいた形式(つまり原理)を判断基準にする。
そういった姿勢は、辺境モンスーン島国においては主流とならない。
だから、科学も容易に宗教になり、見分けがつかなくなる。
科学者のデータ捏造が、素朴で生活者的なプラグマティズムによって実行される。
さてここで、日本的形式主義、これに名前をつけようと思います。
キーワードは、暗箱、ブラックボックスです。
根拠のない、論理が曖昧な、ただ存在し流通するがゆえに是とされる形式。
中身が任意である、つまり空っぽな暗箱。
暗箱は通常、仕組みが外からは見えない、何らかの入出力を伴う構造体を指します。
飛行機の航空データ格納器がブラックボックスと呼ばれるように、
覆いを取り払い、解析を施せば、論理に則ったメカニズムを知れるものです。
しかし、日本的形式主義は、ふつうの暗箱ではありません。
外見は黒く覆われ中身が窺えない、しかしその内側は全き空虚、エンプティです。
純粋無垢な暗箱、そこに美しささえ見出せる究極のブラックボックス。
これは日本にとっては伝統でも、世界からすればあまりに先進的でした。
たとえば「言葉と意味の結びつきは恣意的である」と説いた言語学者ソシュール。
たとえば自己準拠の論理的不可能性を「不完全性定理」として確立したゲーデル。
理性に基づいた哲学と科学が、研究の過程で直面することになった理性の限界。
それらを感性に従ってなんとなく「そうだよね」と、僕らは首肯することができる。
日本は少子高齢化だけでなく、プラグマティズムにおいても世界最先進国です。
議論が先走っているので補います。
先の日本的形式主義の名、これを「純粋暗箱形式主義」としましょう。
日本は長く、この思想ともいえない思想に基づいて社会を運営してきました。
明治に入って西洋の科学主義を輸入しても、その本質は微動だにしなかった。
科学を前面に押し出しながら、日本はいまでもアニミズム仏教国です。
この「アニミズム」も形式であって、「自然」の対象は移り変わっています。
藁小屋は自然物か、人間の行為が加担したのなら人工物か?
ビルは人工物か、自然たる人間が作ったのなら自然物か?
バイオ材料は、原子分裂は、遺伝子操作は?
自然と人工の境界は文脈依存、すなわち任意です。
しかしそのことを「アニマ」に適用できるのはおそらく日本だけです。
根拠がまっすぐ空虚とリンクする「純粋暗箱形式主義」。
これは、現代社会において複雑化した「システム社会」と親和性が高い。
メカニズムを組み入れられたあらゆるシステムには設計者がいます。
そしてそれが複雑・大規模化するほど、多数の専門家と、時間などの設計原資を要する。
次第に、個人としては一般人はもちろん、専門家の手にも負えなくなる。
またシステムは、自然な流れとして階層的に発展します。
ある一定規模以上の仕組みを維持するシステムには、
そのメンテナンス(保守点検)を行うサブシステムが付随する。
会社がシステムだとすれば、人事部や経理課はサブシステムとみなせます。
株式市場がシステムだとすれば、その安定性に寄与する会社はサブシステムといえる。
市場のメカニズムを、ある会社の経理課係長が解析できるかどうか?
そもそも、そんな必要もなければ、彼に動機もありません。
システムの階層化は、その構成員を上層システムからどんどん遠ざけていきます。
介在するリンクが増えれば増えるほど、存在実感が薄れ、興味の対象から外れていく。
住民一人の民意が、日本の政治を変えることは不可能なのか?
「いや、国政選挙というシステムがそれを可能にしています」
たとえばこの回答が、ボルツ氏のいう「ブラックボックスの手品」の一例です。
高度の構造的複雑性を機能的単純性によって隠蔽する技術製品を、「ユーザーにやさしい」と言う。はっきりいえば、そうした製品を使うのは簡単だが理解するのは難しい。まさにそのことが、ブラックボックスの手品なのだ。
同上 p.111
個人の生活を安心、便利にする社会システム。
そのシステムには、設計者が存在し、メカニズムを内在している。
その原理に関心を持たない個人にとってはブラックボックスであっても、
専門家にとって同様にブラックボックスであっては当然困ることになる。
設計者がシステムのメカニズムを理解していることの実際的な意味のひとつは、
そのシステムを制御できることです。
この観点によれば、現代の社会システムの設計者はそのメカニズムを理解していない。
それは別に、いまに始まったことではない気もします。
僕が問題にしようとしているのは、専門家ではなく一般人の感覚のほうです。
いや、専門家も一般人然とするようになってきた意味では、特定個人の話ではない。
上述のシステム階層化の別の一面ですが、専門分化が進むほど、
つまり一人の専門家がプロとして扱える対象が狭くなるほど、
自分の専門を成り立たせている技術や学問の全体性に目が届かなくなるからです。
話を戻せば、
今の僕らにとって、現代社会は「純粋な暗箱」に見えているのではないか。
あるはずのメカニズムが見出せない、ブラックボックス的なカオス社会。
道徳や倫理に根拠がないから、行為に後付けで根拠をくっつける形式主義。
論理の破壊、政治の放蕩を他人事にして、消極的に黙認する形式主義。
黙認では気が済まないから追従し、縮小再生産する形式主義。
ああ、この縮小再生産が「トリクルダウン」と呼ばれているものでしょうか。
日本はお家芸だから度は過ぎてもまあ仕方ないとして(近く安全弁が働くでしょう)、
世界中で政治が「純粋暗箱形式主義」に則って運用されている今日は、
(たとえばトランプ、習近平、ボルソナロ、…)
「世界がやっと日本に追いついた」という一言でまとめることも可能です。
そしてそんなことに意味は特にありませんが、
今僕たちがいる場所が、「赤信号」の前なのか「崖の上」なのか、
そういった方面に想像力を向けることは少なくとも、
現状認識にはつながるだろうと思います。
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