human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

個人を殺す個人主義の時代

権力/依存、あるいは命令/服従というタイプの関係は、ひとたび作動するとそれだけで自らを強化し、正当化する傾向を持つのである。言うまでもないことだが、かつてジャン・ジャック・ルソーが述べたように、「おのれの力をに、そして服従義務に変えることなく支配しつづけることのできるほど強い人間など存在しない」のだ。だがこの支配の「イデオロジックな」正当化も、力関係に固有の昇華のメカニズムを外部から裏づけているにすぎない。このメカニズムはつぎのように簡潔に要約できる。力関係は、それも絶対的なものであるほど、下位の者の上位の者への愛を、そして上位の者の下位の者への侮蔑を呼びさます、あるいは強化するのだ。

(…)

スチュワート・ミルの省察を引こう。「ギリシャとローマでは、奴隷たちは主人を裏切るよりはあえて拷問死を選ぶのが日常茶飯事であった。ローマの内戦による追放刑のおりには、女たちと奴隷たちが英雄的なまでの忠誠を示した一方で、息子らはしばしば裏切り者となったことが知られている。しかし、多くのローマ人が自分の奴隷をいかに苛酷に扱ったかは周知の事実である。(……)人間に可能なかぎりの最高度の感謝と献身の情が、われわれの生命を抹殺する権力をもちながらそれを行使しないでいる者に対して発揮されるというのは、生のアイロニーのひとつである

グザヴィエル・ルベルト・デ・ヴェントス「意志と表象としての政治」和田ゆりえ訳 p.101-102
今村仁司監修『TRAVERSES/6 世紀末の政治』リブロポート、1992
太字は本文傍点部、下線は引用者

 
引用した部分を読んで、最近日本で起きた官僚の自殺事件を思い起こしました。
そして本記事のタイトルのような言葉が浮かんできました。

 × × ×

事件の当事者としては、「社会事件として真相を明らかにする」あるいは「事件ではなく個人の事情として闇に葬る」といった動機がある。
だから、関係者に取材がなされ、また法廷の場で事の経緯が議論されることに一定の意味はあります。
 
では、事件をニュースで傍聞きするだけの、当事者でも関係者でもない人はどうか。
 
僕らがその報道経過に関心を注ぐのは、政権の生命に関わるという政治問題であるだけでなく、身につまされる話だと、場所を選ばずどこにでも起きうることだと思っているからです。
当事者でない僕らが当事者感覚を持ってこの事件に接することの意味は、「自分がこのような状況に陥らないこと」にあります

この視点からすると、事件の経緯を知ることは「教訓」にはなりません。
それは単に「また起こったか」という、地震や大雨被害などの天変地異のニュースに接した時のような、日本特有の無常観を確認しているだけです。
政治権力のなかで人が死ぬことはもちろん天災ではなく人災で、「政治力学」という言葉があるように、人と人との間の現象でありながら、権力が作動する場は科学的とも言える、ある「メカニズム」を内臓しています(引用した文章にはそのことが書いてあります)。

引用の最後に「アイロニー」という言葉がありますが、権力関係で結ばれた人々に起こる悲劇が逆説的であるのは、それが非論理的に見えるということではなく、当事者は「組織(内の)力学」に呑まれて「組織(という場にはたらく)力学」を見失いがちであるということでしょう。

 × × ×

人が集団生活を営む歴史の古くから起こり続けていることが、同様に現代社会にも起こる。
だとすれば、そういったことが起こるうえで、身分制の廃止や平等観の成立とか、文明の発展とか、生活の豊かさとか、情報取得の自由といったことはあまり関係がない。
社会の総意のようなものを想定すれば、人間社会が組織的活動を必須とする以上は仕方のないことだと言うかもしれない。

でも、古代と現代とで大きく異なる点として、今では(少なくとも先進国に暮らしている)人は所属する組織を選ぶことができるし、一度所属すると決めた組織から離脱する自由もある。
集団における自己の去就の選択肢を有するはずの個人が、致命的な状況において、その選択を適切に行う判断能力を発揮できない。
 
事件はそのように起こる。
その事件の原因を個々の組織の事情や個人の資質に求めたところで、おそらく人々はそれを活かせない(そのような報道を幾度も目にし耳にしながら、同様の事件に人は巻き込まれていくから)。
 
 
以上のことが、個人主義の話とどうつながるのか。
 
僕はアイン・ランドの『水源』を読んでから、自由至上主義リバタリアニズム)に対する印象ががらりと変わり、消費社会との関連で言われる個人主義はそれとはかなり異なるものだと考えるようになりました。
 
後者の個人主義から取り出せる性質に、近視眼的思考があります。
 時間的な近視眼とは、短期的な利益や快楽を追求する発想。
 空間的な近視眼とは、(価値をおく)人間関係の狭さ。
これらの近視眼が個人の幸福をもたらすという筋書きは、消費社会の持続的な経済成長という要請(じつはこの「持続的」も実際は短いスパンに過ぎませんが)に基づいている。
という論理は納得はしていたのですが、『水源」に描かれているとても視野の広い自由至上主義の思想に触れて、この論理がたしかな実質を得た気がしたものでした。
 
閑話休題
 
個人主義の近視眼的な性質、あとポストモダニズムの半端な解釈というのもあるのですが、本記事で書きたかったことは実は一言で済みます。
 
個人が「個人の選択の自由」をあまりに狭く考えるようになると、(引用にある)「力関係に固有の昇華のメカニズム」に簡単に絡め取られてしまう
 
ALS嘱託殺人の事件も最近ありましたが、これは「自殺する権利、個人が死を選択する自由」にも関係しています。
 
 
個人の意思はつねに個人に帰属し、その意思を十全に発揮できることが自由(ひいては幸福)の証だ。
このような考えは、強く生きようとする人には力になるかもしれませんが、状況によっては、自分で自分の首を絞める自由に陶酔することにもなる。
それも本人の自由だし、本人が選択したのなら是とするべきだ、というのが「半端なポストモダニズム」で、「それは本当だろうか?」と疑うこと、「大きな物語」が消失して価値観の基盤を失った現代人は自分の(というか社会の)価値観をつねに問い続けなければならない(それは必然ではないが少なくとも論理の要請である)、というのが自分のポストモダニズムの理解です。
 
話を戻しますと…
 
個人主義的な人間理解は、集団のメカニズムに対する関心の低さと一体になっています。
それはたぶん、メカニズムによる説明は責任の所在を特定個人に帰せないからでしょう。

 
 
スケープゴート(贖罪の羊)、というのがあります。
昔は現にその羊だったり、他の獣や人だったりがいましたが、現代ではメタファーとしてしか存在しません。

いや、ふとこの言葉が去来したのですが、
個人主義時代のスケープゴート」とは、なにかとてつもなくおぞましいものである
ように思えます。