human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「もののあはれ」とは喜怒哀楽が等価であること

相変わらず、家での読書は『小林秀雄の恵み』(橋本治)の「沼」に嵌ってます。

今回はスタートが遅すぎる(本記事を書き始めた今はもう寝る時間)ので、
とにかくシンプルに思いついたことを書き殴り、たい。
(でも一つひとつ展開してったらかるく1万字は超えるだろうな…)

「物のあはれ」とはまた、「すべての人の中に感情はある」ということでもあるし、「すべての感情は感情として等価である」ということでもある。でなければ、《俗には、たゞ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也》(『本居宣長』十四の『石上私淑言』巻一)などということは起らない。だから私は、「憎し」だってまた「あはれ」でいいと思う。だから、《物の哀といふ事は、万事にわたりて、何事にも、其事く[←くの字点]につきて有物也。》(『本居宣長』十五の『紫文要領』)ということになる。

「第九章 「近世」という現実」p.341

「すべての感情は感情として等価である」

これは「もののあはれ」または単に「あはれ」の意味について述べてあることで、
実際にそうだとか、近世(あるいは中世以前)の常識だったとか、
そういう話ではありません。

が、これはかなり凄いことを言っています。

ここで直接的には橋本治が言っているのですが、元をたどれば、
小林秀雄が『本居宣長』から引用しており、
つまり本居宣長が言っていて、その彼もまた、
『石上私淑言』から引用しているので、「本歌」の人は別にいて、
だから、誰かの洞察というよりは文化として受け継がれてきた認識の一つです。


引用の太字部に触れて、連想が同時にいくつも広がり進んで、
この太字部がマインドマップの中心(スタート)の一語みたいになったんですが、
その「同時」というのは本当で、
どれか一つを今経時的に展開すると他が薄れてしまいそうで怖いんですが、
まあそれは仕方ないので取り掛かります。


上では「そういう話ではない」と書いたことですが、
仮にですが、なんとなくの想像で、
中世(平安時代とか)の雅な人々は「もののあはれ」がわかっていて、
日常的な感情の下地が「もののあはれ」でできていたのだとして、
そこから思いつく疑問は、
 「なぜそういう状態が成り立っていたのか」
 「現代人が同じ状態に至ることは可能なのか」
といったあたりですが、前者からいきますと、

僕が思うには、中世の時代というのは、
 「各種感情(の起伏)の発現が世の中の秩序とは無関係であった時代」
なのではないか。

中世の人々は、日常的に「もののあはれ」と親和的に生活をしていた。
橋本治の言い方を借りれば「すべての感情(たとえば喜怒哀楽)は等価である」と感じていた。
なぜそれができたかといえば、喜怒哀楽のどの感情の起伏があろうとも、
それは日常生活の秩序と無関係であった(秩序を全く乱さなかった)から。

それは珍しいことなのか、それとも当たり前なのか?
現代と比べれば、それはわかります。


現代人は「喜怒哀楽」と言われれば、
ふつう「喜」と「楽」を「いいもの」と考える。
それらが日常生活で多く起これば「幸福な生活」であり、
一方「怒」や「哀」の感情は、できれば避けたいと思う。

一緒に笑えば楽しいし、ずっと笑っていられればいい、
でも我慢もよくないから時には怒ることも大事だし、
悲しいことが起きればしっかり悲しむのも大事。
家族のあいだでは喜怒哀楽のすべてを共有するのが良しとされる。

それが、外付き合い、会社や公的な関係になると、
先に述べた通り「喜」と「楽」に重きがおかれる。
円満なビジネスの関係はお互いがプラスの感情を持つことで促進される。
また、(「哀」は少なそうだが)「怒」は上下関係でよく発揮される。
命令に従わせるため、反論を抑えるために、上司が部下を怒鳴りつける。

さて、こんな現代において、
「すべての感情=喜怒哀楽は等価である」かどうか?
もちろん、等価ではありません。

プライベートな関係では、等価であることが望ましいとされる。
が、それはあくまで理想で、実現は稀である。
ビジネスの関係では、そもそも等価であると考えること自体が非常識である。

つまり、現代人は「もののあはれ」が分からない、
あるいは「もののあはれ」の理解が許されない時代に生きている、
と言ってもいいんですが、まあそれはよくて、

では、現代の常識である「すべての感情=喜怒哀楽は等価ではない」は、
何を意味するのか?
となれば、
「各種の感情=喜怒哀楽は、各々が別の価値と結びついている」
こうですね。
最初の言い方に倣えば、
現代は各種感情(の起伏)の発現が世の中の秩序と関係をもつ時代だ
ということです。

つい最近新聞の書評か三八広告かで見たんですが、
 昨年の統計で女性の自殺が増えたのは、コロナ禍のしわ寄せが
 「感情労働」に従事する人(割合として男性より女性が多い)に行ったからだ、
 といった分析がされていました。
 「感情労働」は、肉体労働、頭脳労働の区分けに対して、
 第三次産業(サービス業)の興隆に応じて加えられたもので、
 それまでの労働(つまり肉体・頭脳)には要求されなかった「感情」が、
 仕事の成果と結びつくようになった。

…と、ちょっと話を単純化してる気はしますが、
上の話の例としてはちょうど良いと思います。

つまり、「感情労働」はその傾向が極端に現れる一例なんですが、
現代では多くの場面で、
「感情(の発現や抑制)が生産性(仕事の成果)という価値観の管理下にある」
ことが当たり前になっている。

それは仕事をしている間だけだろう、と思うかもしれませんが、
そう割り切れている人はおそらくほとんどいなくて、
というのも「リスク(マネージメント)」とか「コスパ」とかが日常語であること自体、
生産性思想が日常生活の中枢にまで浸透していることの証だからです。

言い換えれば、プライベートの感情も生産性の管理下にある。
これはまた、感情の発揮が「計算ずく」であることも意味します。

 あいつの機嫌を損ねたら厄介だから、喜ばそう。笑っていよう。
 この前の不躾を反省してもらいたいから、ここではちょっと怒っておこう。

いや、家族の間の感情のやりとりの全てがそうだとは思いません。
結局このような目先の計算もまた、持続的な感情の相互作用に回収されるからです。

ただ、この「打算の感情」に対して、「無垢の感情」なるものが仮にあるとすれば、
「打算」は短期的なものでいずれは全て「無垢」に回収されるのが家族だ、
なんてことはもちろん夢物語で、両者は常に拮抗するのが現実ですが、

問題がどこにあるかといえば、

生産性思想の浸透はこの両者の拮抗を「打算」側に利するというだけではなく、
それが家族の幻想(家族間は「無垢」であるという)によって自覚されない場合、
その幻想(理想でもある)と現実のギャップがどんどん広がっていくことです。

(これは個人的な偏見なのかもしれませんが、
 僕が子供の頃はほとんど聞くことのなかったはずがいつ頃かとみに増えた、
 「引き攣ったようなガハハ笑い」(男女問わず)がとても苦手なんですが、
 テレビのバラエティ番組の影響だろうなとは思うんですが、
 上記の「ギャップ」の広がりとも関係があるのかもしれません。
 つまり、「いつも笑っていられる生活は幸せ」という認識が転じて、
 「いつも笑っていれば幸せになれる」になり、
 それは完全に「打算的な笑い」なんですが、この認識の転倒が無自覚であれば、
 これが「無垢な打算的笑い」という非常に薄気味悪いものになるということです)
 


いや、実はそんな問題はどうでもよくて(書いてる途中に思いついただけです)、
もののあはれ」の話に戻りますが、

本記事の最初に、
「現代人は「もののあはれ」の理解が叶わない時代に生きている」
と書きました。

そしてそれは、「全ての感情が価値として等価である」という考え方が既に亡く、
感情労働」に代表されるように、
社会(というか生産性思想)が喜怒哀楽の各々に異なるランクを付与するようになったからだと。

けれど、そう書いてみてふと、
現代人は「もののあはれ」を感じる余地を全く失ったのではなく、
それを感じる場面が古代の人々と変わっただけなのではないか、
と思いました。

この辺りのことを一言で表せば、
「現代人の「もののあはれ」はバーチャル化した(のではないか?)」
となります。

つまり、実際の(人や物や金が動く)生活の場では感情が他の価値観に従属しているため、
そうではない場所や時間、たとえば読書やテレビや映画など(まあ娯楽ですね)では、
その従属から逃れて喜怒哀楽を思う存分に解放している。

僕は恐怖映画がダメな性質で、普段見たいとは全く思いませんが、
何の因果か見ざるを得なくなった時は案外見入ってしまうような気もしますが、
あるいは遊園地のジェットコースターなどもこの文脈上は同類かもしれませんが、
普段の生活で同様の感情(場面)に遭遇すれば厄介に違いないような感情でも、
それがバーチャルな場面であれば、その感情についてくるはずの負の実際的価値は抹消される。
だから、普段では起こってほしくないようなことも、バーチャルなら許せるし、
むしろ感情の起伏の消費という意味では「カムカムエブリバディ」ということになる。

いや、これは娯楽の本質というか性質そのものであって、
今さらあらためて言うことでもないなと一瞬思ったんですが、
いいや、気付きとして重要なのはやはり、
これが「もののあはれ」と結びついている、ということです。

しかし、そこに戻る前にバーチャルの話を少し続ける必要があります。


喜怒哀楽をバーチャルで解放して、それと実生活のバランスがとれるのは、
バーチャルと実生活のあいだに明確な境界があってのことです。

SONYウォークマンから始まり(いやテレビか、ラジオからか?)、
スマホやらVRやら、最近はメタバース(metaphysical universe?)とか言ってますけど、
科学技術がその境界をどんどん失くしにかかっていることは周知の通りです。
戦争だってそうですね。
殴打武器が飛び道具になり、戦闘機になり、無人爆撃機になり、原発ハッキングになり。

いや、喜怒哀楽はどこに行ったんだって話ですが、それほど逸れてはなくて、

バーチャルがバーチャル感そのままでリアルに影響を及ぼせるようになること
それによって、
人の喜怒哀楽の発揮が、バーチャルとリアルの間で交錯して混乱することになる。

 × × ×

すみません。
燃料切れです。

「現代人が喜怒哀楽を他の価値から切り離すにはどうするか」
というところまで行けば、
「現代人がリアルで「もののあはれ」を感得することも可能だ」
という結論にもっていけたんですが。

いや、そんなのできるはずですけどね。
できる家族はやってるし、
「サードプレイス」てのもあるし、
本来のボランティアだとか、
大学のサークルなんてのも(いい意味で)能天気なところはそうだろうし。

ただ、家族であれ何であれ、
その場の空気や質感が、
その場にはないバーチャルな情報に押し負けてしまうと、
話は(というか「価値の拠り所」が)こじれていきます。

最初にした引用の一部で締めます。

物の哀といふ事は、万事にわたりて、何事にも、其事其事につきて有物也。


p.s.
もののあはれ」のバーチャル化については、
まだ色々掘り下げられそうなので、
機会があればまた書きます。