human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「不気味の山」とリアリティの解像度

 電子の仮想空間が誕生する以前から、人間は夢を見ていた。夢と現実を取り違えないでいられたのは、夢が現実に比べて圧倒的にデータ量が少なかったからだ。多くのメモリィを必要としない、解像度の低いものだった。合理的な秩序も、緻密なディテールも、そしてなにより再現性が不足していた。リアルは、相対的にそれらが完備した、ほぼ整った世界だっただけだ。この関係は、ヴァーチャルとリアルでは、既に逆転し始めているといっても良い。

森博嗣『神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned?』講談社タイガ、2019

山田 この頃のテレビドラマでは、お父さんお母さんというのは、ほとんどコメディ・リリーフみたいな役どころで、実態を描こうなんて気は作者にもさらさらない。
見田 バックグラウンドというか、舞台装置ですね。
(…)
山田 テレビの現実感に与える影響力は思っている以上に大きく、深刻なもので、作り手はかなり注意深くなければいけない時代になってきていると思いますね。昔は、あれはお話だよ、という認識が当然のごとくあったから別に問題はなかったんだけれども、だんだんそうじゃなくなってきて、テレビで人生を学ぶのですから、由々しきことですよね。それで結婚すると、相手には匂いもあれば、手触りもある。髭は痛いし、汚すし、これは非常に特殊な人じゃないか、と思ってしまう。そこで現実に気がつくというのなら、まだいいのですが、現実感のない自分のほうが正しいと思ってしまう(笑)。不思議な倒錯が起きてきている。
見田 オウム真理教ですね。

見田宗介×山田太一 母子関係と日本社会」p.172-173(『超高層のバベル 見田宗介対話集』見田宗介講談社選書メチエ、2019)
対談の初出は『大航海』第五号、一九九五年八月。

 
見田宗介の本を読むのはこの対談集が初めてですが、とても興味深いです。
多様な専門の対談相手に対して、相手の(というか対談として設定された)テーマに合わせながら、どれも社会学的見地から日本を深く分析していく論理に、読み手は思考を刺激されます。

直近二つの記事もそうですが、これもそのようにして触発されて書いています。



不気味の谷」は有名で、アンドロイド等の人間を模した人工物の洗練度と、その人工物に対する好感度のグラフを描いた時に現れる谷のことです。
ではタイトルの「不気味の山」とは何かですが、もちろんこれは「谷」に関連したものです。


一つ目の抜粋、これは22世紀を舞台にした森博嗣SF小説ですが、「解像度」とは、文字通りの意味では、テレビやスマホ等のディスプレイのスペックとして語られる、映像の精巧さのことです。
それがここでは、映像という視覚情報だけでなく、リアルを模擬するメカニズムの全体に対する「再現性」、感覚器でいえば五感を含むもの、そして生活・社会環境の役割性や時間感覚でいう秩序、そういったものの再現性能を指しています。

ヒューマノイド、作中でウォーカロンと呼ばれるものが生物学上(つまりもちろん見かけ上も)人間と同一になり、不老不死が達成されつつあり、VR技術も相当進歩した遠未来のことなので、「ヴァーチャルとリアルが逆転し始めている」と書かれているわけですが、この点を除けば、現実の現代社会に対する分析としても通用します。

このSF中にも書かれていることですが、ヴァーチャルとリアルを混同する要因として「解像度」が高くなってきたこととは別に、人間は生活環境の内実に関わらず「ルーティンに慣れる」、つまり繰り返しに対して惰性化するという性質があることも挙げられます。


二つ目の抜粋は、その「ルーティンに慣れる」ことの一例としてリンクしました。

核家族化、個室を与えられた子供、その子供部屋も含め家族に一人一台テレビがあること、そのようにして家族間のコミュニケーションの質が変わり衝突の少ないものになった、という脈絡において、テレビドラマが提示する家族像が「本来の家族というもの」であると信じ込んでしまう、これは子供に限らず、その親だって同じ認識になり得ます、その環境に呑まれつつ自分たちでその環境を作っているわけだから。

そして、密度の薄いというか、ほぼ定型だけで作られた家族像(ドラマでは「その定型からの外れ方」がまた定型になっている)を抱えた子供が成長して家庭をつくり、現実の家族生活とその家族像とのギャップに直面して、家族像が現実によって修正されるならまだよいが、(それに従って相手を選んだり子育ての方針をつくってきたかもしれない)強固な家族像が現実生活の方を否定してしまって、「リアルの方がリアリティがない!」という認識に至る場合、このことを山田氏が「不思議な倒錯」と表現し、オウム真理教に傾倒した若者のメンタリティに通じるものがあると見田氏は指摘しています。


さて、本記事のタイトルの話に入りますが、このことを思いついたのは、冒頭で抜粋した箇所の少し手前を読んでいた時でした。

見田 ぼくの業界の話をすると、八〇年代には疎外論批判」というのが流行ったんです。ゼミでレポーター[発表者]の学生が、たとえばなにか「本来の」あり方みたいなものを前提して、それが現在失われているという言い方をすると、「それは疎外論的な発想だ」という言い方でみんなにやっつけられる。そういうパターンが流行ったんです。
(…)
 例えば、一人の青年が「本来」というと、それに対してそれは「疎外論的発想」だとクールな人が批判する、というパターンがあった。それは、どっちが正しいといってもしようがないんじゃないかと思います。例えば、本来はあるはずだとどうしても思えることのリアリティがあるわけでしょう。(…)同時に「疎外論批判」をする人がなぜ批判するかというと、批判したいことのリアリティがあると思うんですね。どっかで回復不能な傷を負った姉がいるとすると、「本来」を信ずるナイーヴな弟の健康さに苛立ってくる。
(…)
 一方で夢のリアリティがある。他方で、なぜかやっつけたくなる、批判するリアリティがある。このリアリティの対峙する水準できちっと捉えないと、現在の日本のリアリティは捉えられないんじゃないか。

同上 p.166-167

 
見田氏の「リアリティの対峙する水準」を、内田樹氏の思考を借りて「主観的合理性の分析」と言い換えることもできると思います。

それはさておき、この抜粋にある「疎外論批判」という言葉を聞いたのが僕自身は始めてで「へえ」とまず思いました。
そして現代日本の言論状況、実質皆無の「言った(押し通した)もの勝ち」、論理の整合性に関係なく負けを認めた方が負けというチキンレース的似非ディベート、炎上工作と紙一重のネット民主主義(中国共産党人海戦術によるネット規制とどこか似ている)、などを思い浮かべ、そういうものがあるとして、疎外論批判」からここに至った脈絡を発想しました。

疎外論」が意味するものを詳しくは知りませんが(なにしろ今日初めて出会った言葉なので)、「疎外論批判」は、ウーマンリブフェミニズム思想)とかポストモダニズム相対主義と同じ思想の流れを汲んだものだと思っています。
既得権益を貪る人々を批判し、既成の価値観を打ち破る、という意志。
この意志は、それが芽生えてしばらくは、これまで不文律とされた既成観念をテーマに掲げて議論を進めることで正義や客観的(あるいは科学的)な価値を追求するものであったはずです。

そして、「疎外論批判」という一語で括られるように、だんだんと議論が定型化する。
それはまた、その意志や姿勢が定型化することでもある。

何事においてもそうですが、定型を獲得した行為は、効果だけが期待され、本来の意志や意味は空洞化します。
今の文脈でいえば、「疎外論批判」はそれが定型化するに至って、そのリアリティを失うことになった。

いや、見田氏の議論の中ではまだそこまで時計の針は進んでいなくて、本来性の追求と「疎外論批判」は議論として対立していたが、どちらが正しいかというよりも、お互いの立場がもっているリアリティに対する視点を持たないと現代社会のリアリティを掘り下げられない、と氏は言うわけです。


それで、僕はここで言及されている疎外論批判を展開する立場の人のリアリティ」という視点に、ある連想を刺激されたのです。

…ふう。
ここからやっと本題です。
 
 × × ×
 
最初のほうに「不気味の谷」について触れました。
擬似的なヒトの精巧さと、それに対して人が受ける好感度の相関性。

具体的には、ちゃちなロボットが人間らしくなっていくに連れて好感度は高まるわけですが、あるレベルまで人間に近くなると、急に好感度が落ちる。
人は「人間のようで人間でないもの」に対して過剰な反応を示す。
それは得体の知れなさにたいする恐怖かもしれません。
そして、そこからさらに人間に近くと、好感度はまた上昇する。
不気味の谷」を超える、つまり、そこに達したロボットを人は「自分たちの仲間だ」と思う。


さて、この話における好感度とは、主観的な人間の感覚です。
好感度について数値的な大小を厳密に比較することはできない。
だから、「不気味の谷」のグラフは定性評価ということになる(はず)。

ここで、冒頭でSFを抜粋した内容を思い起こしてもらうと、それは擬似リアルの解像度がヴァーチャルとリアルの逆転をもたらす、という話でした。

この「解像度」はメカニズムのスペックだと言いましたが、ふと「リアリティの解像度」という主観的な人間の感覚指標を設定できるのではないかと思いつきました。
これは上記の好感度の上位概念になりますが、つまり、人が自分の周囲環境に対して、それがどの程度複雑であればリアリティを感じるか、ということを示す指標となります。

そして、これが本記事のテーマで一番大事なところですが、
人が生来備える「繰り返しに対して惰性化する」性質によって、この「リアリティの解像度」は変化します。


さて、仮に「不気味の谷」のグラフに「リアリティの解像度」のグラフを合わせ込むと、どのような曲線が現れるか。

いや、何か妙なことを考えているなと思われそうですが、自分でも書きながら考えていて本当かなと思ったりもしていますが、アンドロイドに対する好感度だけを取り上げている時はおそらく「人間が感じるリアリティの感度」は一定であるという前提となっています。

食べ物の味で例えれば、料理が美味しいか不味いかをなるべく客観的に議論しようとする時に、素材の鮮度とか調理方法はとうぜん俎上に乗せるが、「料理を前にした人の空腹度」までも考慮するわけにはいかない。
なぜならそれは客観評価に馴染まない、主観的な感覚だからです。

今考えようとしていることは、空腹度から料理の味を評価するというのと、立場的には同じです。


話を戻して、
一言でいうならば、「リアリティの解像度」グラフは「不気味の谷」と逆相関になるのではないか。

人が「ヒトのまがいもの」、ヒトのようでヒトでないものに接すると不気味さを感じる、違和感をもち恐怖すら覚えるというとき、その人はリアルとバーチャルの境目を強烈に意識し、曖昧になったように思われるその境界を再設定せねば気が済まないという境地にある。
つまりこの時、その人の「リアリティの解像度」は急激な上昇を示している。
そして、「不気味の谷」を超えた精巧なアンドロイドに対しては安心してフレンドリーに接する、彼も自分と同じリアルに属するという評価を下す。

これらをまとめると、
ヒトを模した人工物に対する好感度の軌跡である「不気味の谷」に重なるのは、それと接している人の「リアリティの解像度」の軌跡である「不気味の山」とでも呼べるものである。

もちろんこれも定性的な比較であって、「谷」の深さと「山」の高さの大小比較に意味はありません。
 
 × × ×
 
長々と妙な論理を進めてきましたが、僕自身の動機はどこにあったか。
実はそれを言うのは簡単です。

現代社会で生活する僕らの「リアリティの解像度」はどんどん低下している。
これを由々しく言い換えると、
僕らの生活は「低解像度というリアリティ」に囚われている。
本来リアルでないものにリアリティを感じるというのは、要するにそういうことです。


解像度が人間の主観的感覚にもなるという発想を持った瞬間に持ったイメージがあります。

ムーアの法則というのがありますが、電子機器の集積化が進んでディスプレイはどんどん高精細になるわけです*1
ディスプレイが高精細になり、色再現性が増し、あるいは立体感さえ表現できるようになり、それに応じて視聴者はディスプレイに没入し、映像にリアリティをいや増して感じ、「映像の外」に対するリアリティが相対的に減じていく。
頭に浮かんだのは、ディスプレイの解像度と、人の主観である「リアリティの解像度」との逆相関を示す、反比例のグラフです。

それは、「毎晩がステーキと食後のチョコレートケーキ」というアメリカの富豪の悲哀(@河合隼雄)や、毎日がお祭り化して「ハレとケ」の境界を見失った都会人の平板な日常などを連想させます。


だからなんだということもなく、それが良いとも悪いとも思わない、
と上記SFの主人公グアトは考えていますが(森博嗣本人の考えはもちろん知りません)、
僕はそこまでフラットな考え方はできません。

…と書いていてちょうど今思いついたことですが、
冒頭に抜粋した本の別章、見田氏と小説家の黒井千次氏との対談の末尾を、わが意を得たりという思いで最後に引用しておきます。

黒井 フォークソングとか風俗的なものまで含めて、実質的には表現の手段は実に多様化している。ただ、そういうものが驚くほど急速にパターン化するんですよね。自己表現が自由であればあるほど、まったくパターン化しちゃって、あるところまで出していくと、そっから先出していく行き方というのが、みんな似てしまう。これは情報の量の多さとか、いろんなこともあるでしょうが、クリエリティヴなものが自分の表現として出ていかない。一人の絵を見ると面白いが、次のを見ると同じで、みんなこいつら同じかい、という感じなんだ。そのくせ衝動としては既成のものに飽き足らない感じがあって、いろいろ工夫してみる。工夫する内容は、自分の内側から込み上げてきたものじゃない。それで満足しているかというと、必ずしもそうではない。そういうことからいくと、自己表現の可能性と現実性のあいだにかなりギャップが大きくて、現実性のところで見るかぎりは、若者のもってるエネルギーがうまい具合に出ていっていない傾向が強いですね。
見田 そのフラストレーションは、自分でガーンとやって、壁にぶつかってフラストレーションが起こるのじゃなくて、何でも言えるけども、自分が言葉にしたり、絵にしたりした途端に、それがたちまち自分のものではない、みたいな苛立ちというのはかなりもっていますね。

見田宗介×黒井千次 日常の中の熱狂とニヒル」p.146-147
同上
対談の初出は『展望』一九七一年四月号。

 
ああ、上のほうで現代日本の言論状況に対して愚痴っぽく列挙しましたが、
この引用を読んで思いついたので、もう一つ追加しておきます。

"「やってる感」&「それっぽさ」至上主義"

情報過多は「定型過多」でもあって、目の前に広がるが身の丈で扱えず収拾のつかないそれに対する生活感覚的(つまりプラグマティックな)解決策がこの「それっぽさ至上主義」だと思うのですが、このことのしわ寄せ(見田・黒井両氏が語っているのがこの一例です)に自覚的であり続けようと思えば、「別の解決策」を模索した方がよいと個人的には思います。
 
 × × ×

 

*1:余談ですが、僕は昔半導体系の研究所で、高精細ディスプレイの不良解析として顕微鏡で画素の一つひとつを仔細に観察する仕事もしていたので、テレビを見ると、その奥の何百万とも知れぬ画素の存在をつい意識してしまいます。