human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

脳化社会における庶民の「抽象的土着」について

あるいは本題の5倍以上は長いまえおき

 
理解よりも前、それを目指す考察よりも前の、興味の段階にある状態が、
なにごとかを指し示すことがある。

「普遍に至る個性」は、その個性が社会にもまれて生活している限りにおいて、
いわゆる個性的な人物でなくとも、すべての人が可能性として持っている。

ではその「普遍」とは、数多ある開始点がその終局で収斂するただ一点を指すのか、
それとも「個性の数だけある普遍」という矛盾じみた存在なのか?

一つわかっているのは、
そう問おうとする姿勢の主は「普遍」の意味を取り違えているということ。

 × × ×

引き続き『民衆という幻像』(渡辺京二)を読んでいます。

この本は過去に一度手に取った形跡があり(読始の日付が頁にメモしてある)、しかし読み通したかどうかに記憶がなく、気になる箇所からの再読という形で進めていて、ところどころに読んだことがあるなと思わせる場面がありつつ、それを気に留めることなく読む。


そういえば再読の価値を認めるようになったのは、内田樹氏の著作を多く読むようになってからのことでした。
同じ話を何度も読む(聞く)のは、新しい情報が得られるわけでもなく、意味のない無駄な行為である…思考に意味を見出すことを前提とした読書において、以前の自分はこのような認識でいました。
それが、以前に読んだ記憶がある文章を読んで、しかしその当時に得たものの中にはなかった視点や価値観の変化があったという経験が、「自分が変われば世界が変わる」という啓蒙本にありがちの擦り切れた標語に実感を与えたのでした。

読書を「書き手と読み手の一対一の対話」であるする見方があり、その比喩に従えば、対話主体は話の内容だけでなく「対話の場」について言及もし、また考察するという意味で、読書は絵的にマトリョーシカを連想させる「絶え間ない自己言及」をその活動のうちに含む。
よって、「一冊の本を読んで世界が変わる」という言い方が意味するのは正確には、読了したその時にがらりと認識が一新されることではなく、頁をめくり読み進める間に読み手の価値観が、そのいくつもの末端部において間歇的にじわじわと化学反応を起こすような、地味でいて着実な、息の長いプロセスのことである。
その一方で、一冊の本を読み終えることは読書行為の明確な区切りでもあり、この明確さは、同じ本の再読時における自己言及の対象として際立ったマーカーの役割をも果たす。

以上のことを了解しておけば、すなわち、一冊の本を読むことは終わりなき自己言及・自己参照のプロセスを含む経時的活動であること、そして自己の生活経験がそのプロセスに差し挟まれることで当の自己言及・自己参照が外に開かれたものであることを、一度は念入りに考え、常日頃は頭の片隅にでもいいから置いておくことができれば、「一度読んだ本を再度読む価値」について、計量できるはずもないコストパフォーマンスなどといったものさしを取り出してきて、頭を悩ませる徒労をおかすこともない。

 × × ×

閑話休題
タイトルの話を書こうとしていました。

私は雁さんのもっとも優秀な読者のひとりでありうる自信はさらにないが、そのもっともしつこい読者のひとりにならなりうる自信がある。なぜならこの人の負うている主題は、私自身ののがれられぬ運命にとってとうてい他者ではりえぬからである

「わが谷川雁」p.400-401(渡辺京二著、小川哲生編『民衆という幻像 渡辺京二コレクション[2]民衆論』ちくま学芸文庫

抜粋した文章は、『谷川雁作品集』の月報に寄せるために渡辺氏が書いたものです。
渡辺氏が谷川氏に対して表現したほどの強度というのか、覚悟はありませんが、この一文を読んで思わず線を引いた今現在の自分は、ここで書かれたものと同種の思いを渡辺氏に対して抱いているのだと思います。


民衆、あるいは市民といった表現は、為政者が在民をカウンタブルな対象とみなす価値観を時に含むことになる(たとえば行政文書に表れる場合)ものですが、そういうシステム設計者的な(今風にいえば「上から目線」の)姿勢の対極に位置するのが、各々が独自の生活を営み、互いに交換可能であるはずもなく、一般化という視点がそこでは実質的な意味を持たない、一人ひとりが思想として(言葉にしないまでも)各々のプラグマティズムを実践する主体である民です。
ここでは「庶民」という表現にこの意味を託しますが、僕はここ数年、現代社会におけるこの庶民のあり方について、関心を持っています。

この関心というのは、学問的なそれではなくもっと身近な経験に基づいています。
換言すると、身体性の賦活を維持した生活を送ろうとする僕自身が社会で出会う、またはすれ違う人々に抱く多くの違和感に対して(自分自身の反常識や不適応はさておいて)説明をつけたい、という意図がなす関心

常識や慣習というのは、無定形でとりとめがないながらも、同時代において無批判に金科玉条とされ、個人にはその適応度によって正しい・間違いを課されます。
個人が抱く違和感というのは、その正しさとは次元が異なるものです。
その本質は、その常識が正しいかどうかという疑問にも関係がないし、当然、別の正しい常識があるはずだという建設的(?)な考察にも関係がない。

違和感の出所、原因というのか、それを感じるに至る経緯は様々あります。
自分がよしとする価値観と「常識とされるもの」とがぶつかった時に違和感が生じたのであれば、それは「脳起因」である。
一方で、自分がこれまで生きてきて培われた身体感覚が呼び起こした違和感ならば、それは「身体起因」である。
起因するのが脳か身体か、二元論のように厳密に区別できるはずはなく、実際は両者が謎の比率(つまり数値化に意味はない)で混在しているのでしょう。

それはさておき、僕は、自分が抱いた違和感の起源から「身体起因」をより分ける…のではなくて、その違和感が「身体が発する声」であるという前提に立って、その違和感に思考でもってなんらかの根拠を与え、ひいては身体性の賦活に繋げたい、と思っている。


こう書いて、読まれた方は、思考(言葉)が身体感覚を向上させる(鈍磨を食い止める)、ということに矛盾を感じるかもしれません。
たとえば「頭でっかち」という表現が想定する人間像を思い起こすなどして。

けれど、言葉に全面的に依拠して生きている人間は、言葉によって身体を鈍感にさせるだけでなく、敏感にすることもできる。
このことに(ブログや著書を読むことを通じて)実感を与えてくれたのも、上で触れた内田樹氏です。
たとえば氏は「軒下から手を出して雨が降っているかを確かめる」というイメージを、合気道の稽古で手のひらの感覚を鋭敏にするために用いるそうです。
目の前にいる人の背中にそっと手で触れる時、彼(稽古者)に何も言わない場合と、このイメージを言葉で伝えて彼がその場面を想像しながらする場合とで、彼の手の感覚は明らかに違っている。


また逸れた話を戻しますが、上に書いた自分の関心を一言で表すのは難しいですが、敢えていえば…いや、やはり難しいですね。

とにかく、渡辺氏の著書はじめ、何冊かの本を読んでいて、庶民の在り方、そして実在性というのか……唐突ですが「デラシネ」とは根無し草のことで、これは中世ヨーロッパで農地改革だったか産業革命だかで都市に大量に流入した農民の生活基盤の脆さの喩えに使われた表現なのですが、それと同じ位相の喩えで逆の言葉、シモーヌ=ヴェーユのある著書のタイトルでもある「エンラシネメント」(邦訳は『根をもつこと』)、これですね……つまり、昔のいくつかの時代のいくつかの国の庶民のエンラシネメントについて読んで、その現代のあり方とはどんなものだろう、ということに関心を抱くようになりました。

(話のついでに書いておきますが、この「庶民のエンラシネメント」についてのグラスルーツな考察がなされているものとして、渡辺氏の当の著書を含む3冊を選び、セットとしてサンタナ鎖書店で販売しています。オススメという言い方はちょっと違うのですが、これまで僕が作成してきた鎖書の中ではいちばん「歯ごたえがある」ものだと思っています。この認識に基づいて(あと本の原価も考慮していますが)、鎖書の販売価格もいちばん高く設定しています)
3tana.thebase.in

「鼓腹撃壌」という言葉があります。

曖昧な記憶で書きますが…これはたしか中国の故事です。

 お忍びで町に出たある国の王が、一人の農民にこう尋ねる。
 「この世でいちばん偉大でない人間は誰か」
 相手が王と知らない農民は「我が国の王である」と答え、王のことを散々こき下ろす。
 けれど、それを聞いた王は腹を抱えて大笑いする。

その王が「民が自国の統治者を自由に批判することができる国こそ平和な国である」と言ったか、これがこの故事の意味であったか、だったと思います(正確なところは調べてください)。

この故事に関連づけてだったか、渡辺氏が著書の中で、アジアの国の「為政者の平和(安定)的統治観」として、古くからそれは民が政治のことに何ら関心がなくとも国(国政)が維持されることであった、と書いています。
それは市民の政治参加による民主的な政治運営というヨーロッパの文化と異なる、とも。

それで、この鼓腹撃壌が「庶民のエンラシネメント」とリンクしていて、庶民の庶民性は、一人ひとりが目の前の自分の生活のことにかかりきりになれる(なっている)ことにある、というようなことが、社会主義に関する戦後ロシア文学をテーマにした渡辺氏の文章に書かれています。

 人間とは風景であり、そして風景はたがいに愛しみあうものであるという思想は、とほうもない詩人の恣意のようにみえる。しかしこの思想には、少なくともロシア的な生活伝統という基礎がある。ロシアの民衆は風景のように生きて来たし、それは個が個たりうる生きかただったとパステルナークはいうのである。
 私には、ソルジェニーツィンもこれとほとんどおなじことを言っているように思える。少なくとも彼が『イワン・デニーソヴィチの一日』で提示し、『収容所群島』で展開した、日常些事こそ民衆の思想的とりでであるという思想は、パステルナークの圏域とけっして異なる世界を指してはいないと思う。

パステルナークの圏域」p.398 同上

ときに自分の話をします。
僕自身は抽象的な思考が好きで、その志向は森博嗣氏の膨大な著書に培われたのですがそれもさておき。

 物事を抽象的に捉える。
 具体的な体験を抽象化して教訓を見出したり一般論に結びつけたりする。

こういった思考はふつう、上で抜粋した「民衆の日常些事」とは遠いことのように思えます。
通常は、庶民がかかりきりになる「目の前の生活のこと」から目を逸らした想像、実際的な成果を生まない頭の中だけの妄想のように思える。

でも、実はそれは違うかもしれない。

なぜ「それは違う」と思ったか、その理由を先に書きます。
それは僕自身の関心にあります。

僕には、「庶民のエンラシネメント」に関心があり、それと違和感なく並ぶようにして、抽象思考、具体的な出来事の抽象的把握にも関心がある。
これは単に、一人の人間が全く関係のない2つの対象に関心を持っている、ということに過ぎないのかもしれない。
でも、もしかしたら、ここにはそれ以上の意味が、まだ言葉になっていないが言葉にされることを待っている意味があるかもしれない。

やっと本題

 
…本題を展開する前に書き過ぎてしまいました。
そしてほぼ力尽きています。
毎度のことですが。

タイトルに関して、思いつく限り、無秩序になりますがメモだけしておきます。


現代日本は、生活が不安定だ、先行きが見えなくて不安だ、といった言論に満ちている。
実際に、流行も技術革新も仕事(就労)環境も変化が目まぐるしく、起こる事件は凶悪化し、また大規模になっているように見える。
不安を覆い隠すようなテレビのどんちゃん騒ぎがあり、引きつった笑い声が街に、通りに、駅や電車に満ちる。
自分の仕事に、家庭のやりくりに、子供を外部の不確定要素から守るために、スマホが抱え込む膨大な情報をキャッチアップするために、「目の前の生活のこと」にかかりきりになる。そうして目の前のこと以外は存在しないもののように振る舞う。自分にとって存在しないものであるはずの外部から干渉を受けると、気分良く弛緩していた表情が歪み突然怒り出す。理不尽な現象には、理不尽に対処する。
こういった振る舞いをすべて、現代日本庶民のエンラシネメントの現れであると考えることは、可能ではある。
同時に、その逆として、彼らはデラシネである、と考えることも可能である。
後者を採用した場合に、その思考はどのような展開を見せるのか。

脳化社会において人、特に都会人は、人間の頭が設計し、計画した事物(街、道路、住居、インフラ、情報環境、…)に囲繞されて生活を営む。
事物は明確な因果関係を前提とし、数量化されることでシステマチックに管理される。
あるものを数量化するとは、そのものの性質のうち数量化できないものを捨象する作業である。
それはすなわち抽象化である。
我々は社会で暮らすにおいて、実際に使い、目にし、五感で感じることができると思っているが、それらの背景・布置が抽象化されたものに囲まれている。
そこで、こう問うてみる。

人は「目の前の生活のこと」にかかりきりになるだけで、抽象化された社会に「根付く」ことができるのだろうか?

そうではなく、もしかすると、歴史上かつてなく、現代社会に特有なこととして、
脳化社会に庶民が「根付く」ためには、いったんプラグマティズムを棚上げしての「抽象的な思考」を要するのではないだろうか?

ものごとの背景やメカニズムや構造を知るといった迂回的に実際的な効果を生む思考、とは次元の異なる「抽象的な思考」、すなわち抽象志向。
社会の脳化に呑み込まれて身体性を損なうのでなく、身体性の自由領域を保護すべく社会の抽象的な運営システムに対してバランサーとして機能する、抽象志向。

そうだとすれば、
脳化社会における「庶民のエンラシネメント」のための抽象志向とは、どのようなものか?