human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『生活世界の構造』読了

『生活世界の構造』(アルフレッド・シュッツ、トーマス・ルックマン)を本日読了しました。

長かった。
一年くらいかかったでしょうか。

監訳者あとがきを読んで、巻末の事項索引にまで線を引いて、そしてその流れで最初のページから(自分が線を引いた所だけ拾い読みのつもりで)読み始めてみると、線の引いていない最初の一文から内容が凝縮されている感じがして、この感覚が続けば(じっさいは続かないのですが)「読了直後の再読」であってもまた最後まで読めるのではないかと思いました。

ルックマン氏の筆による「序」に、このような一節があります。

日常生活の構造分析とは、永遠の哲学と歴史的な社会理論とが取り組むべき終わりのない課題である。

「序」p.023

終わりのない課題。
いつまでも関心を惹く、そして分析の深まりとともに関心も変わり続けていく。
それだけで日常生活ができるわけではないが、その在り方がまるで日常生活そのものであるような営み。

学者がこのテーマを扱う利点は、「それ(日常生活の構造分析)が日常生活になりうる(学者の仕事として業績になる)」というだけであって、体系化が未知の増殖に阻まれてその構築と崩壊を繰り返すようなこの分野の探求は、日常生活の主観的経験にどっぷり浸かって暮らす「素人」にこそ、その動機が内に息づいている。
 
この本は、経験として呑み込んでまた別のいろいろな本へ向かう「長い階段の一段」としてではなく、つねに座右にあり、いつも繰り返して読むわけではないが、必要があれば、日常生活から少し離れて腰を落ち着けてゆっくりページを開く「螺旋階段の支柱」として、そばに置いておいた方がいい気がします。

思想の根源、いつでも帰りを待ち受ける故郷、ではない。
そこに還れば安心する、場所や姿勢というわけではない。
思想に故郷はない。
けれど、思考は故郷のような、身が心地よく収まる場所を求める。
いわば思考の根源的な動機、未来の理想郷を目指す羅針盤として。

 × × ×

抽象的な思考の本領は、具体的な状況に適用(演繹)できる可能性の広さにあります。


刻々と事態が遷移し、
予想外の出来事が頻発するかのような、
新聞の第一面で大文字が毎日踊り続けるような、
感覚が麻痺して非日常を日常と錯覚してしまうような生活。
常識が変わり、
慣例が崩れ、
既知が定着しないまま無用の長物になる。
腰を落ち着けてなどいられない、
チャンスを逃してはならない、
バスに乗り遅れてはならない。
生活が懸かっている、
他人に構う余裕はない、
親切はリアリズムの餌食になる、
現実はお花畑ではない。

状況は変わり、人は適応する。
それが人間の性(さが)である、の一言で済む。
済ませられる話ではある。

それは日常の不可避性、シュッツは本書でそれを、
「大切なことを真っ先に」という原理、
と呼んでいる。

その人間の性は昔も今も変わらない。
変わったのは社会の方である。

社会は、集団を統治するシステムや集団を匿名化して利益を生み出すシステムは、システムの目的のために人間の性をうまく利用する。
システムに属する人々(その元はやはり一人の人間である)は、「大切なことを真っ先に」という人間の生活原理に基づいて、計画を練り、設計を重ね、「時間を先取りする」ためのシステムを構築する。
ありうべき未来を想定し、それを必然とするためのシステム。
それは未来を現在とみなす、時間の幅を極限まで短縮する「無時間化システム」でもある。
本来的には無理筋である、未来は時間が経たねばわからないのだから。
だがそれを実現する、そのために捨象されるのは人間の複雑さであり、そのために覆い隠されるのはシステムの複雑さである。

人はよりよき未来を目指し、それを確実にしようとし、それは確実にやってくると思い込むために、どんどん複雑なものを作り上げる一方で、自分自身は単純であると認識していく。

そのようにして、人もシステムも、人の手を離れていく。

 × × ×

話を本書のことに戻します。

「生活世界」は、人間の一人ひとり誰もが、等身大のそれとして営んでいます。
システムを設計する人だってそう。
でも、システムの運用(運動)自体は、「生活世界」を超えています。
個人を単純化し、匿名化し、指標化しないことには集団として扱えないから。

だから、社会システムが高度になるほど、システムそのものは人間から遠い存在になる。
そして、どんどん高度化するシステムは、人間の生活世界に影響を与えずにはいません。
発想の出どころ(システム設計者)は等身大でも、その価値観は等身大を遥かに超えたもの、そんなものが僕らの生活世界に直接介入し、成立させています。
 
それでも人間は、適応します。
今まで適応してきたし、現在もそうし続けています。
その「適応」は、人間の性に基づいて行われますが、果たしてこの「適応」は、人間がこれからどうなっていくことなのか。
人間の性自体が変化していくのか、人間の性に背いた「適応」が人間をだんだんと「人間ではない生物」へと向かわせるのか。

そんなことは単に言葉の問題だと思われるかもしれません。
それにもちろん、これほどのシステムの高度化は過去の歴史になく、経験知も直接その解答を教えてはくれません。

でも、状況が急速に変わりつつある現在でもわかることはある。

それは、「変わることで僕たちは何を失うか」です。


本書には、僕らの生活世界の成り立ちについて、事細かに書いてあります。
それは具体例を交えながらも抽象的で、その意味するところは、時代状況に捉われず普遍的な内容であるということ。
だから現代人の僕が読んでも意味は通じる。
そして、その抽象的な構造分析の記述の一端を読んで、現代に翻訳し直すことができる。
その翻訳によって、現代社会が、人間の「生活世界」のどの部分を強調し、また価値のないものとみなしているか、そういったことにも思考が及ぶ。

ここで大事なことは、それを読む僕自身が、「生活世界」のどの部分を価値があると思っているか、です。
僕が重要だと思い、大切にしたいと思っていることに対して、社会は特に意味があるとは思っておらず、そんなことやめちゃった方が効率がいいよ、てなことを言うようであれば、僕はそれを守るために社会(の価値観)からある一定の距離を置かなければなりません。


「生活世界」はどうあるべきか、社会はどうあるべきか、といったことは書いていません。
「生活世界」と社会はこのように関係している、という現象学的・社会学的な記述がある。
その「関係」は今の自分にとって、また現代社会において、どうなっているんだろう。
本書はこの関心を呼び覚まし、その思考を深めるツールとなり、そして自分なりの理想を描く羅針盤となってくれます。