human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

モジュール化と「無知の無知」(後)

前回の続きです。
残りは結論だけ。

cheechoff.hatenadiary.jp

ルーマンの引用箇所を何度も読み返しながら考えたのは、

 社会進化における機能的分化(つまり専門分化)=モジュール化

ということでした。

つまり、専門分野に特化して生計を立てる専門家とは、
車の製造工程におけるモジュール(部品群)のようなものである。

そして、これは前半に書いた内容ですが、
「拒否」だけでなく「適合」もが「分化の強化となる」こと、
に何か意味がありそうだと立ち止まった自分が得た認識は、
 上記の「専門家=モジュール」という等式が、
 生易しい良い所取りのメタファーではなく、
 システム論的視点でみれば全きイコールである、
ということでした。


何が言いたいかというと…
前回、モジュールについてこう書きました。

 モジュールの役割は、モジュール自体の価値の追求ではなく、
 そのモジュールを含んだ全体であるシステムへの貢献にある。

モジュールを専門家に置き換えてみます。

「専門家が自分の専門性を追求する目的は、社会全体への貢献にある」

何か理想論に聞こえますが、まっとうな表現です。

そしてしかし、専門家の目的は自身が生活していくことにあります。
その自身の生活を顧みないプロのことを「専門バカ」と呼んだりします。
いや、違うな、自分の専門以外の事柄を知らない、無頓着な人のことですね。

僕は大学院時代、この「専門バカ」のバカっぷりに高濃度かつ単独で曝露して、
つまり研究生活の他を圧倒するネガティブ面に嫌気がさして見切りを付けたのですが、
モジュールの役割として考えれば、「専門バカ」こそが正しく理想的なのです。

言い方を換えれば、
システムがモジュール的な人間を要求するし、
人間はその要求に応える(適応する)ことができる。

その要求が人間性(つまり統合性)の毀損をも求めるのだとしても。

 × × ×

というここまでは、言葉を変えてこれまで何度も書いてきましたが、
このトピックについて「無知の無知」というキーワードを閃いたのが本記事の収穫です。

ソクラテスの言葉で有名な「無知の知」は、
「自分は何を知らないのかを知っている」
ということです。

未知に対する探求、知的活動がここから始まるという意味で、
また、自分の知識量に関わらず謙虚でいられるという意味で、
(「わかることが増えるほどわからないことも増える」ことが分かるから)
無知の知」は知性を賦活するうえでベースの姿勢となります。


これと真逆の立場が「無知の無知」です。

「自分は何を知らないのかを知らない(し興味もない)」

この態度は(義務教育に限らず)何かを学ぶ人間としては致命的です。
そして、機能的分化を推進し続ける社会はこのような人間を要求します。
(つまり、現代社会では「無知の無知」実践者のほうが居心地良く生きやすい)
ここに「教育の段階有無に関わらず」という但し書きが付くのですが、
高度消費社会で生後の人間が消費主体になるタイミングを考えればいい。


人間が動物と違うのは「本能に抗うことのできる意識」を持つ点で、
自殺は究極の反本能的活動という意味では、意識の尊厳を追求する極北でもある。

意識は動物的本能に抗えるし、従うこともできる。
僕は、人間性とは「本能との調和」のことだと考えています。


上で「専門バカ」について触れましたが、
本来は常識や異分野の知識の欠如を意味するわけですが、
「本能との調和」がシステムの要求によって崩され続けていく将来、
自身の生活や生命維持に無関心な人間もそこに含まれてくるでしょう。
自分が関心を持たずとも、システムが配慮し手配してくれるからです。


伊藤計劃SF小説『<harmony/>』にあった、
「思考のアウトソーシングという印象的な表現をふと思い出しました。


また、今読んでいる『ニュークリア・エイジ』(ティム・オブライエン)には、

「想像したことはすべて実現するんだ」

という妄想癖の主人公ウィリアムの意志が書かれていましたが、
それは将来の夢の実現や先端科学技術の発展などのポジティブな面だけでなく、
ディストピアの到来という誰も望まない未来すら引き寄せうる。

 意識の自己破壊性は崇高ですらあるという矛盾も人間性の一部である、
 そしてこのことを忘れた人間の元に、それとは別の形で回帰してくる。

なんだかフロイトのような話になりました。

 × × ×

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