複雑性(コンプレクシティー)
確実な計算のための情報が欠けていること。複雑性の下では処方箋を書いても呪文を唱えても効き目がない。ただし、「それ自体として」複雑な対象があるわけではないのであって、ある構造がどれだけ複雑で「ある」かはそれを記述できる形式によって決まってくる。
(…)
人は環境に対して適切に反応できるほど自分自身が複雑であるわけではないから、複雑性の縮減と複雑化の埋め合わせが必要になる。過度の複雑性は、縮減の強制という実践に駆り立てる(そうすれば安心できるかのように思われる)。しかし、複雑性の縮減で問題が片づくわけではない。外部の複雑性の縮減は内部の複雑性の増大をもたらすのである。組織は、外部の複雑性を縮減し外界を見通しの利くものにした分だけ、みずから複雑になる。その結果、コントロールのための分業が不可欠になる。システム自身が複雑になればなるほど、それは命令によって制御しにくいものになるのだ。
「用語解説」p.282 (ノルベルト・ボルツ『意味に餓える社会』)
この「複雑性」についての用語解説は、とても重要な知見を多く含んでいます。
自分の関心に対しては3つくらいリンクがあるのですが、その中の一つについて書きます。
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「外部の複雑性の縮減は内部の複雑性の増大をもたらす」
この言明はメタファーとして広く適用できる可能性を持っています。
解説では組織が具体例に挙げられ、個人としての人に対しては抽象的にだけ触れています。
僕の興味は、では個人において複雑性はどのように発現しているのか、です。
その流れで、ふと甲野善紀氏の言葉を連想しました。
「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」のが氏の武道における基本姿勢だと、
内田樹氏との対談本で発言されていた記憶があります。
その氏が武術研究に身を置くことになったきっかけの考え方について、
手元に本がないのですぐに引用できないのでひとまず記憶の印象で書きますが、
「人間における自然とは何か」
「人間の運命は必然であると同時に偶然である」
といったテーマの探求を生涯の課題とする決意に至られたが、
それによって氏は自分がいかなる状況に陥ろうとこの課題への関心は失わないだろう、
と思われたようです。
つまり、自分の行動、そして自分のまわりで起こる出来事のすべてが、
自分の探求テーマと深い関わりを持つがゆえに熱心に取り組まざるを得ない、
ということだと思います。
先に引用した複雑性に関する言明を、個人について当てはめてみます。
まず、以下のように考えてみる。
個人における「外部」=個人の外部認識
個人における「内部」=個人の内的欲求
これを単純に言明に当てはめると、2つの命題が導ける。
”外部認識の複雑性の縮減は、内的欲求の複雑性の増大をもたらす”
”内的欲求の複雑性の縮減は、外部認識の複雑性の増大をもたらす”
命題の逆は真とは限りませんが、論理学的には対偶は真であり、2つ目が成立します。
さて、命題の逆か対偶かは今の自分にあまり関心がなくて、
それはつまり1つの命題が含む2つの現象の因果関係はどうでもよい。
問題にしたいのは、2つの現象に相関があり、並立していることです。
僕が甲野氏を連想したのは、氏が上記2つの、後者だと直感したからでした。
自己のシンプルな欲求に基づいて、複雑な現象を複雑なまま取り扱える人物。
僕はこの意味で、氏のような(氏が目指す)思想を体得したいと思う者です。
一方で、上記2つの命題の前者。
ちょっと分析してみたいと思ったのは実はこちらのほうです。
具体的に言い直してみます。
世界の成り立ちを単純化して捉える、自分が何をしたいのか分かっていない人物。
こんな人がいるだろうか、と疑問に思う前に、
この類の人における「内的欲求の複雑性」について考えます。
それは例えば、思想の問題、言語運用の問題です。
複雑なものを単純に言い表そうとすれば、切れ味は良くても、取りこぼれが生じる。
言語運用における複雑性の縮減の常用が生み出すのは、
いずれ山となる「微妙なもの」、ニュアンスや行間に潜むものの蓄積です。
言葉に対する正確さを求めなくなる、その怠惰の影響は当然、自己表現にも及ぶ。
端的に表される、自分が欲しいもの、やりたいこと、好きな言葉。
それらが自分自身を表現していると思い込むうちに、ふと兆す不安。
「内的欲求の複雑性」が指すのは、その不安を解きほぐす手段が失われている状態です。
「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」こと。
この言葉は、単に言葉の限界を表しているだけではありません。
言葉の限界を受け止め、それでも使うしかない言葉によって、その限界を打ち破る。
限界は無限への導きの糸であり、不自由は自由の探求に不可欠な素材です。
これは、設計されたシステムには代替できない、徹底的に個人的な仕事です。
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