human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-8 (承前)

香辛寮の人々 2-5 「シンゾー・エクリチュール」 - human in book bouquet
香辛寮の人々 2-6 (承前) - human in book bouquet
香辛寮の人々 2-7 他責主義の底に潜むもの(承前) - human in book bouquet

* * *
 
「僕はここ最近ずっと、システムについて考えている」
「へえ、何のシステム?」
「特定の何かじゃないんだ。一般的な…という言い方もよくないな。定義を考えよう。僕が言いたいのは……『人の意図から離れたところで社会を維持しようとする仕組み』のことだ」
 セージは天井を見上げる。白熱電球がひとつ、あかあかと光を発している。
「君のいうそれを、今はシステムと呼ぼう、と?」
「そうだ。だからいろんなものを含む。いちいち挙げるのは面倒だけど、たぶんシステムに含まれないものはほとんどないと思う」
 彼は頭を戻し、とりとめのない面持ちでフェンネルの眉間を眺める。

 どうやら彼の頭は高速回転しているらしい。
 そこには充実の雰囲気があり、同時に空回りを運命付けられているようにも見える。
 個人が扱うには大きすぎる問題?
 どうなのだろう。
 そもそも何をもって、大き「すぎる」などと判断するのか?
 意識に限界がなければ、意識の扱う対象にだって限界もないだろう。
 もちろん、健全だとか酔狂だとか、そういったことはまた別問題だが。

「それで…君のいうシステムは、具体的に考えるよりは、なんというか、概念のまま考えた方がわかりやすいのかな?
「いや、分からない。それは考えてみないことには」
「うーん、そうであれば、とりあえずは具体例に落とし込んだ方が、考えやすいんじゃないかな? 理論を構築したいわけでもなし、あわよくば教訓だとか、警句みたいなものが導ければいいくらいに思っているのだろう」
「いや、分からない」

 フェンネルはセージに向き合っているが、その目が何をとらえているのかは窺い知れない。
 そうだった、下手に相づちを打ってもフェンネルの場合には逆効果なのだった。
 円滑な言葉のキャッチボールが、そもそも求められていないのだから。
 だから気を遣う必要はない。
 ないのだが……。

「何を問題にしていたのか、ちょっと忘れちゃったけど、新聞の話をしていたんじゃないかな。そう、新聞を読んでいるとね、そこに書かれている言葉の多くに、ちぐはぐな印象を受けるんだ。論理性とか、嘘か本当かとか、そういう問題じゃない。ニュースにしろ評論にしろ……いや、そこはひとくくりにできないな。主に政治の言葉にしておこうか。政治家の発言、行動、政治的なニュース。一つひとつのニュースには、それが報道される意味がある、と少なくとも送り手は考えて紙面を構成している。その意味に従って、ニュースの書き方、つまり実際に起こったことの切り取り方が選ばれる。そういう報道側の意図は裏にあって、でも表には、政治家の意図がある。国会で、記者会見での発言、あるいは靖国に今年は行ったとか行かなかったとかの行動、彼らの言動の一つひとつが目的を持っている。少なくともそのはずだと僕らは考える。政治家は自分が見据える目的を達成するために、日々活動しているわけだ。その目的が、彼ら自身のためなのか、僕ら有権者のためなのか、はた目に明らかではあるけれど、そこは今は問題じゃない。僕がちぐはぐだと感じているのは、彼らが目指していることと、彼らの言動がもたらす結果とが食い違っている、ということだ。それも、社会情勢とか人民の反応に対する彼らの『読み』が間違っているからではなく、端的に彼らのもっているはずの思想と実際の言動とが乖離している」

 セージは目を丸くしてフェンネルの話を聞いている。
 真剣ではあるが、その内容に驚いているようにも、何も理解してないようにも見える。

「どう表現すればいいんだろう。あんた、本当にそんなことやりたくてやってるの? 言いたくて言ってるの? ざっくり言えばこうなのかな。何かに無理やり言わされていて、でもその自覚が全くない。自分の意思ではないものを、あたかも自分の意思であるかのようにして自信満々に振る舞っている。……いや、そうか。自信満々に振る舞うことが正しいんだ、という確固とした自信があるんだ、彼らには。で、形式、姿勢にばかりこだわって、彼らの発言の内容にまで思考が届いていない。内容なんて後でどうにでもなると思って、とにかく政治家としての格好を取り繕うことに夢中になっている」
「ああ。それはそうかもね。国会でのやりとりを見ていると、閣僚の答弁の杜撰さに動揺して発言が混乱する野党議員の方が異常に見えるくらい、大臣の面々はつるりとした顔で発言しているからね」
「あの国会答弁の絵面は相当にグロテスクなはずで、だから国会中継がニュースの素材になる時はニュアンスが皆無になるほど細切れの断片でしか扱われない。まあでも、どこかの放送局では最初から最後まで見られるはずで、そのグロテスクが完全に隠蔽されているわけではない。ただ、というかだからというか……『世の中って結局こんなもんだよ』という諦念、あるいは侮蔑の認識の象徴になっているんだよ、あれが」

「あれというのは…国会答弁の中継が、かな。国のお偉いさんがテキトーなこと言ってごまかしているのが常識になる、というようなことかい」
「うーん。そういう一面もある。ただその……まず、『閣僚の答弁の酷さは市民のモラルハザードを招来する』みたいな発言を野党の誰か、えーとあの福耳の人かな、言ってたけれど、あれは一面的な見方であって、閣僚答弁は彼の言う原因であるだけではなく、結果でもあるんだ。つまり、彼らの存在を許しているのは紛れもなく僕ら、有権者一人ひとりだからね。その、政治家の誠実さとか、まっとうさよりも経済政策を優先した一部の大勢が求めた結果が現状なのかもしれない。それは経済情勢の好転のために他の面には目を瞑る、という判断だね。だけど、その判断自体がモラルハザードであり、その始まりであると考えることもできる。だから彼らは鏡、政治家の醜悪な姿は僕らの映し身であって、見るに堪えない理由は倫理観とか義憤の表れではなく、羞恥心なんだよ」
「ふむ」
「それとね……そうそう、こっちの方が大事だ。政治家の印象の話をしても仕方がない。その印象が、当たり前に受け入れられている、あるいは華麗にスルーされている、問題はこちらの方だ」
「ええ? 誰も受け入れてはいないだろう」

「個人の感情としてはね。だけど総意として、たとえば内閣支持率もその一つだけど、もう内閣総辞職してもいいくらいの失態をいくつもしているのに未だ現状が維持されていること。常識外れな突拍子もない政策が立案されて批判され、実行されて批判され、撤回されて批判され、それでもまた同じようなことが繰り返されていること。これらが意味するのは、結果として、今の政権を社会が受け入れているということだ」
「結果として、ね。なんだか突き放した言い方に思えるけれど。あれだな、ゲーム理論を思い出すね。一人ひとりが効率を追求して、結果として集団全体が非効率に運営されるという話」
ゲーム理論? 信頼理論じゃなかったっけ。まあいいけど…でもそうだな、そういう話かもしれない」
個人主義の追求が社会を衰退させる」
「うん……誰が言ったか全然思い出せないけど。ダメだな、理論を整理するには提唱者の名前もしっかり記憶しておかないと」

 話すごとに俯いていくフェンネルの額は、今はテーブルにくっつかんとしている。
 肘を付いて持ち上げられた両手の指がひよひよしている。
 餅を喉に詰めて苦しむ田舎の爺さんのようだ。
 声を上げて助けを呼びたいが、嫁の手前、格好悪い姿を見せられない。
 その表情はわからないが、だいたい想像はつく。
 まあ、こういう時にはフォローが必要か。

「ん? いや、別に理論的な考察をしたいわけではないのだろう」
 指のひよひよがぴたりと止まる。
 予想に反して、少し浮いた頭の下は無表情だ。
「そうだった。……コーヒー入れよう」
 セージの興味津々という観察顔は、フェンネルの目に入らない。
 彼は立ち上がって、ふらりと台所に向かう。

 文脈不明な話を長々と聞いているだけなのに、セージは自分が元気になってきたことに気付く。
 彼のエネルギーを吸い取ってしまったろうか、と思う。
 エントロピー、という言葉がふと浮かぶ。
 無秩序性のとめどなき拡大、というやつだ。
 この法則は、外部とのエネルギー交換が存在しない系の内部で成立する。
 今いるリビングがその理想的な系だとして……、
 僕とフェンネルのどちらが、より無秩序になっただろうか?
 いや、しかし秩序と静謐とが同じベクトルとも限らないな。
 意志のエネルギーは、あくまでメタファーに過ぎない。

 だが、メタファーによって、僕らはエネルギーを獲得するのだ。
 物理学にしてみれば僕らが住む世界はSFに思えることだろう。

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