human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Led Lake, Moon Magic

 
「いやあ、また発見がありましたね。表面部と深部で異なる主ベクトルを形成することで、結果として領域全体の流れ内での局所摩擦を回避するとは、想像もつかないことでした。あれを観察対象として捉えた場合、流れは近似球面方向にのみ存在して、深度は流れの厚みという概念でのみ評価されるというのが、一般的な見方だからです」
「そう言ってもらえると恐縮です。自分の一部であるにも関わらず、自分の目で直接は確認できない対象、この自他境界的な現象の専門家としては、専門外の思考や観点が新たな発見につながることもあります。ご興味を持って頂けることは私の研究の発展にもつながります」
「そうですね。発見とは、そうして連鎖するものが本来の形なのかもしれません。発見の新しさが、現象自体ではなく、現象の把握方法に属する以上は、ある特定の対象に取り組み続ける者の発見が、同業者に影響を与えずにおかないのは当然といえます」
「研究者にとっての、プロセス的幸福ですね」

「ところで、先程あなたがおっしゃっていた、憧憬対象による心理的作用の相違について興味があるのですが、先に疑問を提示しておきましょうか。身近な人物に対するトータルな憧憬が起こりにくいのは、どうしてでしょうか?」
「それは、僕も気になるところですね。というより、この論点自体がつい数十分前に浮かび上がってきたものなので、思考の現在位置として、湖道さんとそう遠くない地点にいると思います。つまり答えを速やかに提示できる用意がないということですが」
「ああ、これも"発見"の一つでしたね。文脈の希薄さがまた面白い。では再度、論点の整理からスタートしてみてはいかがですか」
「お時間は大丈夫ですか?」
「構いません。未来の予定は常に計数上限を超えていますが、前世が煙突掃除人だったものですから」
「ほう、それはまた。煤に塗れるのには慣れている、と?」
「そうです。会議や視察なんてのは、みんなで集まって燃え滓を拝むようなものです。みんな火傷を嫌がって、そのくせ嫉妬の炎は聖火リレーの如く絶やすまいとする」
「はは。…ええと、何の話でしたか」
麻月さんは先程、憧れの人物は小説の中に沢山いる、とおっしゃっていました」
「ああ、そうでした。あなたに”どういう人に憧れるのか?"と聞かれて、改めて考えてみるとそういえばそうだ、と思ったのです」

「身近にいる人物がまあ、いちばんリアルな他人だとして、テレビや新聞で動向が知れる有名人などは中間的だと言えそうですが、リアルな他人の対極として、小説の登場人物を想定することができます。ある人物に憧れを抱く場合、その対象は今挙げたようなリアルの度合に関係なく存在し得ると思いますが、その憧れ方、憧憬形式とでも言いますか、そういう視点で見ると、リアルの度合に応じて差異が現れてくる気がしたのです。それが、さっきも言いましたが、身近な他人に対しては"外見や性格など、人物の一部の性質"に憧れるのに対し、小説中の人物には"性質や振る舞い、佇まいなどを含めたその人物のトータリティ"に憧れる。このような傾向を見出だせる可能性を考えました」
「その差異が現れる根拠として、憧憬対象から得られる人物情報の違いを指摘されておられました。つまり、一方のリアルな他人には直接対面することによる大量の情報入力があり、他方の登場人物は文章という量、形式ともに限られた情報しか取得できない、ということでしたね」
「ええ。生身を目前にした圧倒的な情報量は、全的把握が不可能という印象につながります。従って、自分の判断は自己が認識できた、その人のごく一部である性質に対してのみ下され、その判断のさらに一部が憧れの感情を抱く対象になる。簡単に言えば"リアルな他人の、一部そのまた一部に憧れる"。小説の中だとまた話は変わって、物語のほんの一部の人物描写やらその人物の視点の描写が、読み手に知れる人物情報の全てで、これは憧憬という強烈な感情作用を注ぐには不足である。この場合、憧れの感情そのものが、少ない入力情報を増幅する機能を獲得する。だいたい、小説を読むこと自体が"行間を勝手に膨らませる営み"なので、その下位事象であるこれも当然といえばそうなのですが、結果として、読み手の特別な感情を刺激し得た登場人物は、彼に関する描写のすべて、加えて彼に関係のない場面やらそもそも小説に書かれていないことも含めて、読み手の全的な憧憬対象になる。まあ、これは全的というか"拡張他我"とでも呼ぶか、よくわかりませんが」

「拡張他我、ですか? 拡張自我なら聞いたことがありますが」
「そうです。僕もその言葉からの連想です。高速道路のドライブインなんかに行くと、ジャージ姿で歩くカップルや家族連れなんかを見かけますが、あれは家族の車が彼らの家の一部屋と認識されていて、だから彼らにとっては近所のコンビニから車で一時間かかるドライブインまで、"家に居ながら"移動できる場所はどこでも家の庭にいる感覚なのですね。きっちりお出かけの準備をして家を出発してきた身からすれば、それがなんとも異様な光景に見えるわけですが」
「なるほど。それも興味深い話ですが、すると、車内や"家の庭"が拡張自我にあたる、と?」
「えーと…あれ、どうだったかな」
「まあなんとなくは分かりますが」
「そうそう、言いたかったのは、つまりこれが"自我持参"というやつなんです」
「ぷっ」