human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

小川洋子とイチローと「善意解釈の原理」

 自由市場におけるある種のウソは、人々に犯人をまるで透明人間のように扱わせる。問題はウソそのものにあるわけではない。システムに最低限の信頼が必要なのだ。古代の環境では、ウソの中傷を広めた者は生き残れなかった。
 善意解釈の原理は、相手の発言をあたかも自分の発した言葉であるかのように理解すべきだと説く(訳注2)。善意解釈の原理や、この原理に背くことへの嫌悪感は、リンディ対応だ。たとえば、旧約聖書イザヤ書」29章21節に、「彼らは言葉によって人を罪に定め、町の門でいさめる者をわなにおとしいれ、むなしい言葉をかまえて正しい者をしりぞける」とある。いつの世も、悪者は人を罠にかけるのだ。ウソの中傷は、バビロニアではすでに重罪だった。ウソの告発をした者は、まるで本人がその罪を犯したかのように罰せられた。

訳注2│善意解釈の原理は、思いやりの原理、寛容の原理などともいう。議論をする際、相手の発言をできるだけ筋の通った方法で解釈するべきであるという哲学や修辞学の原理

「第12章│事実は正しいが、ニュースはフェイク」p.316-317
ナシーム・ニコラス・タレブ『身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質』ダイヤモンド社,2019


「リンディ対応」とは本書の造語で、歴史という長い時間を耐えて生き残った思想や方法に対してそう呼んでいます。

タレブのこの本は非常に面白くて、日常的に積ん読が多いのでさくっと読了しようと読み始めたのですが、身に染みる分析、警句、逸話がとても多くて、一息で読み終えるのは勿体ないと思い(まあ実際はスタミナの問題ですが)、集中的に読みつつも一日数章ずつ進めています。
 
一時は10冊以上になっていた併読書を最近いちど整理して、併読といいながら手に取る頻度の低い本を本棚に収納したのですが、そうするとサイドテーブルに積み残された併読書の中にまた手に取る頻度の低い本が出てきて、「アリの巣における働きアリ比一定の法則」のようでもありますが、そのように"働きアリだったのに怠けアリになった"一冊である小川洋子氏の短編集を今日久しぶりに続きを読み始めた時に、ふとタレブの「善意解釈の原理」を思い出しました。
 
なぜだろう…と考えるに、小川洋子氏の小説では、心を込められた登場人物(つまり通りすがりでない)はみな「善意解釈の原理」に基づいて生活しているからではないか、とまず思いつきました。
タレブの本の中の説明では「善意解釈の原理」は議論における発言という枠がありますが、もっと広くとらえて相手の行動や態度、つまり他者の自分に対するコミュニケーション要素のすべてを想定対象に含めるとします。

ただ、一般的に小説の内容には不可欠とさえいえる心理描写には、主人公(描写主体)が誰か他人の発言や行動について想像することも当然含まれていて、また推理小説はそういった想像に筋が通ってこそ物語が成立するものでもあり、別に小川洋子氏の小説に特有でもないような…とも考えられる。

それでたとえば森博嗣氏が講談社タイガで発行を続けている(いつの間にか10冊超えてますね)Wシリーズを思い浮かべ、いつも傍にいて一緒に騒動に巻き込まれる秘書氏や自分の命を狙う組織も含めて他者の主観的合理性を問い続けるその根底には「知性への信頼」があるという主人公の元大学教授ハギリ氏などもやはり「善意解釈の原理」にしたがって行動しているのではないか。

と、こうして具体例を出すと違いがはっきりしてくるのが面白いのですが、今読んでいる小川洋子氏の短編集(じゃないな、日記帳の長編小説ですね)は『原稿零枚日記』で、つまりその主人公小説家女史(作中に名前出てたかな…仮にオガワ氏としておきましょう)とハギリ氏の「善意解釈の原理」運用における違いを考えてみるということです。


ぱっと思いつくのは、「見限り」の有無です。
 
ハギリ氏は想定する相手の思考力をまず高めに(自分以上に)見積もります。
Wシリーズには人格を備えたスーパーコンピュータが何人(何体?)も出てきて、ハギリ氏は彼らと「友人」になったりもするのですが、計算能力からすれば人知を遥かに超える彼らの合理性を分析するなら「高め」を見積もらざるを得ません。
けれど、自分には思いつかないようなことを相手は考えるはずだ、という想定と同時に、人工知能だからこそ思いつけない人間的な発想もある、という冷静な分析もする。

つまり、他者の主観的合理性を問う際に、「他者自身の主観の質」の分析を忘れないということです。

その分析からは、ハギリ氏自身の主観性は(もちろんゼロにはできないので)可能な限り除去される、またはその主観性を対象化して分析に繰り込まれる。
事件や状況の推移を慎重に見定め、事件関係者(自分を含む)のそれぞれの合理性を計算するなかで、状況を構成する一部の領域に偶然や非合理を想定すれば全体の筋が通るという結論が導ければ、ある相手の知性を「見限る」。
それは言い方を変えれば、完全な知性は存在しないという認識でもあります。
 

一方のオガワ氏は、日々の生活において、一人でいる時は小説的妄想を自由に膨らませる心の余裕があるが、他人に相対したり、他人と行動を共にする時はいつもオロオロしている。
喋るのは相手ばかりで自分はひたすら口をつぐみ、また必然といっていいほど行動の機先を相手にとられ、その行く末を、飼育されたウサギのようにじっと身を縮めて心細げに見守る。
それでも頭の中はやはり作家的想像に溢れており、他人を前にしての自分の発言や行動が皆無であることと釣り合うかのようである。

もちろんオガワ氏は問われれば答える、会話が始まれば継続の意思を応答によって伝えるが、機先を制される完璧な実例のように、主導権は相手が掌握し、話の展開をハンドリングする主体性は皆無である。
また一人で行動する時はあらかじめの入念な準備を怠りなく、可能な限りの場面想定をリストアップし、いざ実行となれば人目につかぬよう細心の注意を払うが、何かの偶然で誰かと相対すれば体は硬直、顔は赤面、口に出さずとも平身低頭の平謝り的文句が脳内をドーパミンのごとく駆け巡る。

……話を戻しますが、そんなオガワ氏の頭の中における他者は、等身大の域を出ていない。
一緒にいる相手についてのいろいろな想定をするが、それらは相手自身の意図に関係がなく(関係付けようというオガワ氏の意思がなく)、時には当たるが大体は見当はずれで、想定外の相手の反応にオガワ氏は面食らい、またオロオロする。

「等身大の域を出ない」
「関連付ける意思がない」
と言ったのは道理で、言ってしまえばオガワ氏は小説執筆以外のあらゆる生活場面において小説家だからです。

「相手の言葉をあたかも自分の発した言葉であるかのように理解する」、そしてその「自分」はひたすら等身大の自分である。
タレブ氏の引用箇所の記述からすれば、オガワ氏は忠実なる「善意解釈の原理」の実行者といえます。

そこには、相手の知性の不調(つまり「バカ想定」)や不注意、慢心といった「見限り」がない。


ここまで書いてみて、二人の違いとして最初に挙げた「見限り」よりも適切なキーワードがあると気づきました。
そのキーワードとはたぶん「等身大」、身の丈ということです。
そしてそれは、僕が小川洋子氏の小説を読んで心が柔らかくなる理由でもあります。


話は変わりますが、
ディベートという文化、また言論の守護神(なんて言い方あるか知りませんが)としての…大仰ですね、もっと狭めて、政治家の失言を取り締まる現今のジャーナリズム、これらは「善意解釈の原理」とは真逆の思想を持っています。

なんとかの穴をつつくように、論理のアラを探し、また長い発言の一部を切り取ったり他と都合よくつなぎ合わせて発言者の意図と似ても似つかない「趣旨」を生み出す。
ツイッターの炎上案件も同じ思想ですが、こちらはシステムとして、その思想を貫くには好都合にできています(正確な論理を展開するには一文が短いこと、切り貼りしやすいハイパーリンク構造など)。
 
今思いつく限りは、ということですが、
マスコミの被害者先取姿勢が個人主義的価値観として定着したことと、ツイッターSNSなどネットコミュニケーションツールの普及によって、「善意解釈の原理」は損である、相手に無防備を晒すようなものだ、といったマイナスの価値観で捉えられるようになったと思います。
けれどこの原理は、タレブ氏が「リンディ対応」だと言っている通り、人類の長い歴史の風雪に耐えて引き継がれてきたものです。
この原理に従うことが人間的なふるまいである、という直感を持つ人にとって、その歴史は後ろ盾となります。
 
 × × ×
 
前半を書き過ぎてイチローの話を続ける余力がほとんどありませんが、頑張ります。

イチロー 野球っていうのは、一点を守って、一点を取りにいくスポーツです。
 打っても点が取れるとは限らない。いつもいいプレイで点を防げるとは限らない。そう考えると、アタマの中で、いろんな可能性を巡らせるんですよね。
 起こり得るプレイではないかもしれないことまで、考えるんですよ……。
(…)
 ぼくがやってみたいプレイは……ランナーが二塁にいます。ライト前に飛んできました[イチローはもちろんライト守備]。ホームはもう間に合わないし、投げてもアウトにできない。(…)返球のときに、ボールの角度が高いと、[ヒットを打った走者は]ホームまでダイレクトに投げたと思うわけですよね。そうすると、一塁にいる走者は二塁に行こうとするわけです。そこでもし、上空にカーブを投げていたら、途中で落ちてくるんです。そうすると、二塁でアウトにできるわけで……。
糸井 (笑)おもしろい。(…)遠投のカーブですね?
イチロー そうです。カーブですから、コントロールもそんなにむずかしくはない。十分にできるプレイだと思うんです。

「六回裏 変わらないのはおかしい」p.103-105
「キャッチボール」製作委員会『イチロー糸井重里が聞く』朝日文庫,2019

 
引用書はイチローファンの前で糸井重里がインタビュー形式でした対談を収録したものです。
この本もちょうど併読中なのですが、上述の「善意解釈の原理」と小川洋子氏の小説がリンクした時に、なぜかこの一節が連想されました。
もうあまり論理を展開する元気がないのでざっくり書きますが、

小川洋子氏(いや、どちらかといえばオガワ氏)とイチローは同じだ、と思った
 
インタビューの中でイチローは、アメリカ人(大リーガー)は野球のこととなるとすごく考えるしプライドに拘らず貪欲なんだ、と言っていますが、イチロー氏は抜粋のように、起こり得ないプレイも含めて数限りない想定を頭に展開させてグラウンドに立つわけですが、一緒にプレイするチームメイトや相手プレーヤも自分と同じくらい考えているとも思い、だからこそ自分自身の無数の想定が無意味ではないと思っている。

イチロー氏の中では他のプレーヤも、
自分自身も、
プレイに関して妥協しない、
「見限り」がない。


だから、といえばかなり飛躍ですが、
イチロー氏のプレイを見て元気をもらえる、生命力を賦活されるという人ならきっと、
上に書いた、「善意解釈の原理」に従うことが人間的なふるまいであることについて、
同意してもらえるのではないか、と思います。
 
 × × ×

原稿零枚日記 (集英社文庫)

原稿零枚日記 (集英社文庫)