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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-7 他責主義の底に潜むもの(承前)

cheechoff.hatenadiary.jp
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* * * 

 ヒハツ・コーヒーが入ったカップ2つを手にして、フェンネルがテーブルに戻ってくる。
「この胡椒自体に燻製のような香りがあってね、ドリップ前に粉に足すとコーヒーに深みが増すんだ」
「ふむ。君はどんどんスパイスに詳しくなっていくなあ」
「別に知識が増えてるわけではないけれど」
 そう言いながらフェンネルは嬉しそうだ。
「あれだろう、スーパーの調味料売り場に並んでる小瓶を片っ端から買っているんだろ?」
「そう言って間違いではないが、表現が過激だな。数年かけてコツコツ集めてきたのさ」
 セージはカップのコーヒーを口元にゆっくり持っていき、何度か息を吹いてからすする。
 うんうんと頷くが、感想は特に漏れない。
「今の君の流行りは何だい?」
「コーヒースパイスとして、かな? ヒハツの相性の良さを知ったのが最近で、それからは組み合わせを色々試している。例えばそうだな、五香粉、スターアニスキャラウェイ、セージ。ヒハツは裏方で香りを支えるイメージだから、そのペアには個性がくっきり前面に出てくるものを選ぶ」
「へえ。…これには何を入れたの?」
「ヒハツだけだよ」
「へえー。深い、のかな? 浅くはないかな、うん」
「君はコーヒーならなんでもいいんだろう」
 すまし顔のセージを真似て、興味のなさそうにフェンネルも言う。

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 コーヒー談義を諦めたのか、真剣な表情に戻ったフェンネルが口を開く。
「最近また新聞を読むようになったんだけど、時間もあるからじっくり読むんだよ。今のウィルス騒ぎで政治の酷さや醜さが露呈しているけれど、どうも何が問題かが分からなくてね」
「問題はいくらでもあるんじゃないのかい? 感染拡大への対応が遅すぎたとか、国民への経済保障の方針が決まらないとか、それなのに実用性の疑わしいマスクはさっさと配るとか…」
「うん。そういうのを挙げれば切りがないよね。で、切りもなく延々と報道されている。テーマにニュースバリューがあると開き直って、重要なことも瑣末なことも、ニュースの緊急性に選別もかけずに垂れ流している。そしてそれを聞く方も鬱々としながら、まあ仕方ない、こんな時だから当然こうなる、と受け入れている」
「そりゃまあ……仕方ない、としか言いようがないよね。僕らには」
「別に僕らが何かしなければいけない、とは思わない。その、感染拡大を止める適切な行動以外に、ということだけど。だからむしろ『何もしない』のがいいのかもしれない、『自粛の要請』なんていう論理の破綻した命令に従ってね。…いや、そうじゃないんだ。僕が考えているのは、今起こっていることに対してじゃなくて、その受け取り方の方なんだ」

 フェンネルを見るセージの目が大きくなる。
 口にせず、(来たぞ)と言うのは彼の目である。
 彼は抽象的な話に特にこだわりはないが、話が抽象的になると活き活きしてくるフェンネルを面白いと思う。

「受け取り方? どう行動するか、でもなくて、考え方の話かい?」
「そうだ。考え方、思想の話だ。だからこの思考を深めていったからといって生産性は全くない。でもむしろそれは求められていることかもしれない。つまりウィルスで経済活動が壊滅的に停滞している今こそが、生産性という価値観そのものを疑う岐路でありうるからだ」
「おいおいフェンネル、もう少し順序立てて話してくれよ。君の頭は理解しているのだろうけれど、その理解を言葉にしてもらわないと、こちらは君の論理についていけない」
「……いや、すまない。それは君の言う通りだし、君が間違っている所があるとすれば、それは君だけじゃなくて僕も理解していないことで、その点において僕は正しい」
「そこで自慢するのか? ああ、無知の知、とでも言いたいんだろう」
「鋭いな、セージ。君が話が逸れるのを喜んでくれる友人でよかったよ」
「喜んではいない。諦めているだけだ。君が逸れた道から戻って来れなくなることもね」
「すまない。……真面目さが必要なのはこういう時だな。いつも真面目なつもりなんだが、自分用と他人用で仕様が違うのが難儀だ。いや、君は何も悪くない」
 ぶつぶつ言いながら、フェンネルは渋い顔でコーヒーを一口飲む。
 眉間の皺によってコーヒーの苦味が増長されたという風情である。

「ニュースには良いニュースも悪いニュースもあるけれど、その2種類のニュースを念頭に置いた時に僕らが感じるのは、悪いニュースが圧倒的に多い、ということだろう」
「そうだな。毎日随所で起こる事件には気が塞ぐし、お祭り騒ぎのようなイベントのニュースには『もっと大事なことがあるだろう』と思ってしまう」
「ニュースの良し悪しにはもちろん個人の主観的判断が介在している。政府が国民に一律でいくら払うと決まって、ありがたいと喜ぶ人もいるし、金額が少ない、どうせ何ヶ月も先だろうと不満に思う人もいる。そういう個々の判断の違いはあるんだけど、一方でもっと大きな、一つひとつのニュースの内容とは別の次元における判断というのがあるんだ。たとえば、世の中が悪い方向に進んでいるという社会認識を持つ人がいくつかのニュースに触れた時、その中に肯定的な文脈のものが含まれていても、良いニュースの中から凶兆を嗅ぎ取ってしまう。彼にとっては、彼が目にし耳にするあらゆるニュースが悪いニュースとなる」
「まあ、そういう人もいるだろうね。悲観的というか、もう少し気楽に考えればいいのにと思いたくなるけれど」
「僕が問題にしたいのは、そういうネガティブな人が、なぜそんな考え方をするのかということなんだ」

「それこそ、その人個人の考え方の問題じゃないのかな」
「そう考えれば、それが結論で話が終わってしまう。…いや、話を続けたいからそう言っているわけじゃないんだが、これは実はとても大きな問題なんだ。社会問題にせよ、個人の生活上の支障にせよ、なにか不都合が起こった時、あるいは現にいま起きているという時、その不都合を個人の責任にする風潮がある。いつから始まったかは今はおいておくけれど、その風潮は、確かに、一つの思想であり考え方に基づいたものなんだ。…ああ、『自己責任』という言葉が妙な使われ方をして流行った時期があっただろう」
「紛争地域に個人の都合で行った民間人が、テロ組織に人質にとられたニュースがあったな。あれのことか」
「うん。あの時かもしれないし、あれは単に、僕らの社会にずっと通底していたその風潮がいっとき暴風域に発達したということかもしれない。とにかく、その…そうだな、名前をつけておこうか。自己責任主義、あるいは他責主義、といったところかな」
「え、その2つは同じなのかい」
「違うと思う。けれど、この2つが同じ文脈で使われること、2つ並べると違和感があるが別々に使われると同じ意味になってしまうこと、これもたぶん、今考えようとしている問題とつながっていると思う」

「厄介だな。いや、君がじゃなくてだよ…話が大きすぎて、話がちゃんと進んでいるのか脇道に逸れているのかがよく分からないという意味でね」
「確かに。これは僕以上に厄介だ」
 セージはスルーを決め込む。フェンネルのジョークに対する扱いは、それを発する時の彼の表情で判断できるのだ。
「まあ、結論が出るかどうかは大したことではなくて、問題意識を何かしらの形にできるところまでもっていければいいね」
「その通りだ」

 夜は長い。
 明けない夜はないが、待てども来ない朝もある。
 夜の底で二人が待つのは、朝ではない。

* * *