human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-5 「シンゾー・エクリチュール」

 
 フェンネルは共同の居間で新聞を読んでいる。両肘をテーブルにつけ、片手にコーヒー。居間には彼しかいない。
 業だな、と感じる。昨今のウィルス報道のことだ。
 報道はニュースをなんでもかんでも伝えるが、その姿勢はマスコミに必然の他力本願だ。その言葉を浴びるほど受け取れば、その人間が扱う言葉にも同じ傾向が現れる。「他人が自分のために何をしてくれるか」ばかり考える人間が増えれば、「他人のために何ができるか」を考えることがビジネスになる。そしてビジネスとして確立していく流れに沿うように、形式が内容を侵食していく。手段が目的にすり変わるのは、昔誰かが言った行雲流水のごとき自然現象にも思われてくる。
 玄関のドアが閉まる音がする。廊下を歩く足音に、誰が帰ってきたのかとフェンネルは思う。
 顔を上げると、居間の入り口にセージが立っている。

「おかえり」
「こんばんわ、フェンネル。今日は遅いね」
「こういう日もある。…何かあった?」
「わかるかい。ちょっとね、面白いことがあって」
 フェンネルが立ち上がろうとするのをセージが止める。
「いいよ、自分で淹れる。慣性さ」

 セージはフェンネルの向かいの椅子に座る。疲れているが元気そうな顔をしている。
 脳と身体の相反、という言葉がフェンネルの頭に浮かぶ。

「今日は人と会ってきたんだ。古い友人に『あなたのためになるからぜひ会ってみてほしい』と言われてね。街まで出て、カフェで話をした。夕食前に短く済ませるつもりが、気がついたらこんな時間だ。ふと外を見た時に暗くなっていてびっくりしたよ」
「それじゃあ夕食は抜いたの?」
「結果的にね。まあ、こういう日もある」
 セージは規則正しい生活を送っているが、神経質というわけではない。自分の規則から外れることに頓着がなく、むしろ楽しんでいるようにも見える。彼は「規則は時々破るために普段は守るんだ」と言ったことがある。
「空腹にコーヒーはこたえると思うけれど。冷蔵庫に何かなかったかな」
「いいんだ。疲れた体にはいい刺激になるさ」

 セージはため息をついてコーヒーをすする。フェンネルは俯いた彼の顔をじっと見ている。
 彼は顔を上げない。テーブルに広がった新聞の隅の記事を読んでいるように見える。

「どう言えばいいのかな。悪い人ではなかった。詳しい話は省くけれど、彼はいろんな分野の仕事に携わっているようで、僕の自己紹介を聞いたあとで、その僕のためになるようなことをいろいろ聞かせてくれた。その延長で、僕に新しく行動を起こすことも勧めてくれた。全体的になるほどと思ったんだが、どうも行動を起こす気にまではなれなくてね、彼にいい返事はできなかった。それでも彼は快く受け入れてくれたよ。最初から最後まで、こちらの目をしっかりと見て、真摯に受け応えしてくれたように思った。それでもなぜか、彼と分かれてから後味の悪さが残ってね。いや、後味というか、居心地の悪さみたいなものを会った最初から感じていたような気もするんだ。相手に全く非がないから、どうも理由は自分にありそうだ、でも何がそうさせるのかがよくわからない。……まあ、面白いと言うのは語弊があるか。見ての通り、どっと疲れる出来事だったのだけど、謎が生まれたという意味では興味深いとも言える」

「話の内容は面白かったの?」
「うん。自分が知らない分野のこと、関心はあるが掘り下げて調べたことはなかったこと、会話のなかで彼はそういった僕の関心を引き出してくれてね、上手に説明してくれたよ」
「それで……ただ熱心に話したから疲れたというだけではないように見えるけれど、どうしてだろう?」
「それなんだ。なんだかね、会話はちゃんと成立しているんだけど、手応えがないというか、ニュアンスが伝わっていないというか。いや、別にこちらに明確な意図があったわけじゃないから、ニュアンスもなにもないように思うんだけれど」
 フェンネルには"彼"の顔が、その表情がありありと思い浮かぶ。黒光りする乾いた瞳。流暢に踊る唇の頑なさ。
「そうだな。彼の話しぶりとか、聞き耳の立て方とかが、予定調和的だったということはない?」

「……?」
「具体的に言おうか。細かいところでは君の事情に合わせたことを喋っていながら、それが結局は彼が言いたいことに必然的につながっていく。彼が言いたいことは最初からあって、君の話がどうあれ、そこに結びつけられる。個別的な君の情報が、一つの結論を彩る装飾的な材料にしか用いられていない。そういう感じ」
「うーん、なるほど。言いたいことはわかるけど、相変わらず君の具体例は抽象的だな」
「君が彼との会合を抽象的にしか語らないから当然だよ」
「それはそうだ。しかし……うん、たしかに、僕の違和感は彼の話の内容ではなくて、態度にあったのかもしれない。僕の曖昧な話でよくわかったな。君にも何か経験があるのかい?」

「過去に君のいう彼と同じような人間に会ったことがあってね。僕は自分で考えるのが好きな人間だから、最初から違和感には気づいていた。コミュニケーション能力が高くて、予定調和的な展開を望んでいて、かつそれが自身の利益と結びついている人間には独特の雰囲気が宿るんだ。態度に揺らぎがない。真摯に聞く姿勢にブレがなさすぎてこちらを観察している印象を与える。予定調和を乱すこちらの反応を過小評価する、あるいは無視する。会話の逐一に敏感なはずが特定のメタ・メッセージには極めて鈍感になる」
「メタ・メッセージ?」
「コミュニケーションに関わる要素のうち、コミュニケーションの質や成立可否に関わる信号のことだ。会話の中の言葉や、しぐさや表情などがそれに含まれる」

「ふうむ。そこまで分析できているのか。君はその時、相当イヤな思いをしたんじゃないかな」
「その時はね。とはいえ、分析して昇華できれば、すべてはいい思い出だよ」
「ああ、君は好きだったね。『昇華班活動報告』ってタイトルで昔書いていたな。内容はどうあれ、文章にエネルギーが満ち溢れていて、読んでいるこちらまで元気になった」
「最近は昇華班の出動要請がめっきり減ってしまってね。この平和を喜べばいいのだろうけど、乗り越えるべき壁がないのが寂しい気もする」
「ふふ。どちらでもいいと思っているだろう」
「まあね」

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