human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

無題10

「欲しいものが欲しい、って昔ありましたよね」
「おっ、シゲやんか。古いな。君いくつやっけ?」
「なんですかその運ちゃん仲間みたいな呼び方は」
「ばれたか」
「…それ、物欲が満たされたあとには欲望が独り歩きするってことですよね。そういう状況において、欲望の制御という意味では退化もアリだと思うんです」
「おお、退化の改心やな」
「そんな大層なことではないですが」
「リアクション薄っ」
「…で、物に溢れた現代で物を不足させてみると、選択肢がたくさんあるんですね」
「初心に帰る、と」
「そうです。お店に行けば何でも売っていて、ある用途のものに限定しても種類がいくつもある。僕そういうのを眺めてると別のこと考えちゃうんです」
「ほお?」
「もとの用途を無視して、これ何か別のことに使えるんじゃないかって、つらつらと」
「売り物の前で色々想像すんのも消費者の醍醐味やわな」
「まあその、ふつうの消費者とは別のバリエーションなんですけど、僕はむしろそっちに力入れちゃうというか、欲がそっち向いてるというか」
「それ、君がよう言うてるブリコルールってやつか」
「そうそう、それですよ。明確な用途が発想される以前のものを求めるという。でね、これが消費における欲の向き方の未来形だと思うんです」
「ふうん? ほんなら、それをシゲやん風にゆうたらどないなんの?」
干し芋の干し椎茸」
「ほお、なるほどな」
「冗談ですよ」
「ほお、なるほどな」
「…怒らないで下さい」
「んで?」
「今から考えます」
「なんや、期待もたしといて。よし、あたしが考えたろ」
「珍しく積極的ですね」
「んとな……欲しかったら取ってみな! ってのはどうや」
「ちょっとちょっと、それ僕の財布じゃないですか。いつの間に」
「ふふふ、シゲやん仕込みの神通力や」
「何を意味不明なことを…あっ! そういうことか」
「お、ビビッときた?」
「欲しいものはもう自分で持ってるんですよ。ところがそれが手元から失われるまでそのことに気付かない」
「ほう。その心は?」
「梅雨時の干し芋に注意」
「こだわるなあ。そんなに好きなん?」
「とっても。歯によく挟まりますけどね」
「ふうん。ほい、ほなテイク2」
「…欲しいのはものじゃない、ですね」
「ふつうやな」
「仕方ないですね」

 × × ×

シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」

村上春樹海辺のカフカ(上)』