human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『コンヴィヴィアリティのための道具』を最後まで読むための覚え書き

返却期限までに読み終えることができませんでした。
もう一度借りるか、買うか、どちらかをしたい。
という思いを形にするべく印象をメモしておきます。
(後記:やはりいくらか書評調になってしまいました)

 × × ×

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

行き過ぎた産業主義を政治的に抑制する。
社会主義」という言葉が本書中にあります。
(よく知りませんが、イリイチがそういう人なのかもしれません)
民衆が自立的な工夫や努力でもって、仕事を、生活を成り立たせる。
コンヴィヴィアリティは「自立共生」と訳されています。
共生、の意味は、自立が「他者の自立を阻害しなくてもできる自立」であること。

本書は理想的な社会の構想が語られたものではない。
民衆が自ら望むあり方の社会をつくりだすための概念的道具が述べられている。
上に書いた「政治的に抑制する」ことが眼目で、政治を担うのは民衆である。
庶民一人ひとりが自立共生について考え、自己に基づく指標を打ち立てることが前提となる。
政略に堕した政治を「あるべき社会を成員が参画して決める場」に変えるツールが本書にある。

それゆえ、効率至上主義や言葉の貧困化などの過度の産業主義を批判するだけでは終わらない。
「過度」がどの程度のものか、どういう種類(波及的影響)があるか、も語られる。
読み手は、批判に同調して溜飲を下げるだけで満足することはできない。
その目的で読むにしては内容の抽象性が高く、そして説得的ではないからだ。
説得的ではないとはつまり、書かれているのが説明ではない。
道具の提案があり、歴史や由来が紹介され、使用法が例示される。
だがその使用法は、単独の目的を持たない、自立共生的な使用法である。
読み手は考えて、自ら導き出さねばならない。
この道具を、いかに活かすことができるのか。

本書に書かれた政治的構想が、読み手の自発性を刺激する。
意外にも、政治を身近に感じることができる一冊として推薦できるかもしれない。
あるいは、政治は身近な問題意識からしか生まれないことを示唆する一冊として。

 × × ×

最後まで、あるいはもう一度読もうと思った理由を追記しておきます。

上記の通り、本書は読んだ内容をそのまま糧にするものではない。
考えるツールが提示されているが、哲学書ではない。
自分がいま、どういう時代に生きているのか。
あるいはこの先、時代がどう限界を迎え、破綻しうるのか。
それを読んで理解するというより、読めばそれを考えることができる気がする。
自分の頭で、自分の経験をもとにして。

一つ前の記事と関わることだけど、
これも一つの(生産性と関わりのない)創造性の発揮で、
それが嬉しく、
同時にそれが政治と結びつくことに驚いているのだと思います。

以前『新リア王』(高村薫)を読んだ時に、政治についての充実さを覚えた記憶があります。
その時の感じと今がどう違うのか、今少し興味がわきました。

新リア王 上

新リア王 上

それともう一つ。
抽象性の高い思考が、人を動かす力を持っていること。
僕は文章を書くのは好きですが、小説を書けるとは思いません。
(ディテールを読むのは好きで、けれど小説的なそれを想像して文章化する能力はない)
僕が好んで書ける文章は、抽象性の高いものです。

コロコロ話が変わりますが、言葉(思考)の動性は、抽象化と具体化の往還にあります。
小説は細部が肝心ですが、その縁の下では教訓が土台を担っています。
小説を読むことはこの意味で、教訓をディテールの形で吸収する具体化作用です。
一方で抽象的な文章を書くことは、文字通り日々の経験や思考の抽象化作用です

もしかして、僕の中でこのように読むことと書くことが循環しているのかもしれません。