人が他人のために生きるのは、彼への関心がそこに伴うから。
どんな無意味な作業にも意味が見いだせるのも、そのためだ。
けれど、社会共生システムの高度化が「無関心」に仕事を割り当てると話は変わる。
無関心の強制が、人に意味の境界を既成とみなし、無意味を無下に切り捨てさせる。
ロークが会った建築家たちは、それぞれに違っていた。机をはさんで、親切そうにぼんやりとロークを見つめる建築家もいた。実に心打たれるものだ、建築家になろうとするロークの野心は心を打つし、あっぱれではあるが、若者の妄想として魅力的ながら悲しいものだと、言わんばかりの態度である。中には、口角を上げて薄笑いしながらロークに対し、彼がいるのを楽しんでいるかのような建築家もいた。なぜならば、職を求める若者を前にふんぞりかえっていることは、彼らが達成した地位を、彼らに大いに喜ばしく意識させたからである。(…)
それは悪意ではなかった。それはロークの長所に対して下された判断でもなかった。ロークに価値がないと、彼らが考えていたわけでもなかった。ロークがいいかどうかなど、彼らには単にどうでもよかったのだ。時々、ロークは彼が描いた図面を見せるように言われることもあった。自分の手の筋肉に羞恥心から来る収縮を感じながら、彼は自分の図面を机の上に広げた。それは、衣服を剥ぎ取られるようなものだった。肉体がさらされるから恥ずかしいのではない。無関心な目にさらされるから恥ずかしいのだ。
アイン・ランド Ayn Rand『水源 The Fountainhead』藤森かよこ訳、ビジネス社、2004 p.126