human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

20日目:青龍寺の先達と「なずな」のおかみさん 2017.3.20

<20日目> (36)青龍寺 → 宿(なずな) 16.6km

(1)マメができた
(36)に着いた時に左足の親指内側の鼻緒とこすれるところにマメができていることに気付く。
パッと見で澪えないので出現過程を見落としたか。
鼻緒がきつく指を使えていなかったのでこすれてできた。
2足目がきた時にワッシャでカスタマイズしていればよかったがもう遅い。
3足目はそうするとして、今はこの状態ではきやすいように工夫するしかない。
→宿で手で[鼻緒を]のばした。

要するに、靴擦れですね。
 

青龍寺で先達っぽいおじいさんにマメのケア法を教えてもらう。
痛かったら針でつぶして皮は残してぬり薬をぬっておけばよいと。
靴で誰もが経験していること。
ここからが一つの正念場。

このおじいさんと会った時の情景は覚えています。

青龍寺の参道の途中で、階段を上る手前にちょっとした茶店とベンチがある砂利のところ。
そのベンチに座ってゲタからサンダルに履き替えようという時にマメを発見して、顰め面をしていたところに、そのおじいさんが声をかけてくれたのでした。

マメの痛みは全く覚えていませんが、当時は苦心惨憺だったのでしょう。
 

(2)ゲタの歯の減り
一足目より早い気がする。
鼻緒のせいかも。
3足目は最初からワッシャを使おう。

でも鼻緒にワッシャを噛ませると切れやすいというジレンマ。
たしか使わなかったんじゃなかったかな…いずれわかることですが。
 

(3)宿にて
同宿は1人で、今回別格のみという4回目のおばあさん。
食道切除して食が細い。
夕食はおかずの量がすごくて、いつものようにご飯4杯食べたうえおばあさんから天ぷらを丸ごともらって大変なことに
食後何もできず動けず、ハこうと思ったが遅く、お湯を飲んでじっとするのみ。
というか寝るしかなかった。
寝たらなんとか腹はおさまったが…(今は朝)、体の回復力に感服。

所感:
「体良ければすべて良し」
食べ過ぎは身に染みたが立ち直ってみると何もなかったかのよう。
今日もただ歩こう。

この日に泊まった宿は、道中で「ごはんがおいしい」という評判を聞いていて楽しみにしていました。

たしか、天ぷらに刺身に、おかずもたくさんあって、いつもはおかずの少なさに(一緒に口に入れる白飯をたくさん食べるために)どうちまちまと食べるかを悩んでいたのが、この日は豪快に食べまくりました。
それが、その多いおかずのいちばん油っぽい天ぷらを丸ごと同宿のおばあさんから譲り受けて、厚意をムダにできず、膳の食べ残しも性分が許さず、胃拡張だからと無理やり食べて、食後部屋に戻った時は本当に、一歩も動けずろくに体勢も変えられない状況に陥りました。
旅テンションというのは恐ろしいものですね。
 
「なずな」のおかみさんは思想のしっかりした人で、宿の人に説教されたのはこの日が初めてでした。
というのも、お風呂の時間を聞かれた時に「2回入れますか?」と質問したら、「遍路さんがそんな贅沢したらいかん!」と猛烈に怒られたのでした。
修行の身とはいえお客様気分でいたのは確かで、唐突な怒りにはかなり驚きましたが、言われてみればそうだなあと少し反省しました。

お寺の宿坊やホテルでは、大浴場を使える時間が決まっていて、その時間内であれば何度入っても何の問題もありません。
けれど、個人経営の遍路宿(規模はいろいろで、個人宅の建屋を改装したところもある)では、お風呂は浴場ではなくふつうのお風呂で、夕方から夜中までいつでもOKというわけにはいかない。
結局は経営者の手間の問題だろう、という反抗心もちらりと浮かびはしましたが、「遍路行は何事も縁である」という道理に従えば、悪態をつくよりはしんみりと反省して、それでいてお風呂入り放題の宿に出会えれば(「温泉」が売りの宿坊もけっこうあるのです)シンプルに喜ぶ、のがいいのでしょう。

じっさい、歩き遍路の二大幸福は食事とお風呂なのだから、幸福を味わうべき場面でそれを味わえないのは不幸というものです。
そして、その幸福も縁、その不幸も縁、と。
 
食べ過ぎについては…
なんでしょうね、なにかこう、極端な要素が影響しているような気がしますが、
いずれ考えるとしましょう。