human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

17日目:武道的歩行探求、下駄歯摩耗問題 2017.3.17

 

<17日目> (28)大日寺→(29)国分寺→宿(南国ビジネスホテル) 20.8km(+サンダル2km)

(1)新ゲタ
歩くうちに慣れてきて、踏み込み方も変えて調子はまずまず良い。
鼻緒の締め付けは前より強いが指が痛むほどではない(→慣れる? か伸び待ちか)。
最初歩き始めると歯の外側が先に着地して、外側がすり減って[歯底が水平に対して]斜めになっていったので(前と同じ傾向)、親指に力を入れて踏み込んで改善を図る。
一度左右[に履いていたゲタ]を[互いに]入れ換えてから効果てきめん。
歯の内側の方が削れている状態を維持できた。
イメージは「歯の内側へ向けて餅つきぺったん」。
地面に平らに接地できるよう「粘り気」を出す。
この歩き方で一日歩いてみて、足の甲(足指と足首の間)が痛くなったかな。

 
1行目の「サンダル2km」というのは、この日泊まる予定のホテルが遍路道からわりと外れたところにあって、ホテルに向かって遍路道から逸れる地点でスポーツサンダルに履き替えたことを示しています。
普段の(歩き遍路中はこちらが「普段」なわけですが)ゲタの歩みが遅々としていたので、サンダルに履き替えると何か外部動力による推進力を得たかのようにグイグイ歩けたという感覚を鮮明に記憶しています。
あるいは足が地上から数センチくらい浮き上がっているような。
あるいは、足首に仕込まれたスプリングの弾性力が地を蹴るたびに付加されているような。

ふと、「一部の身体部位の可動域を意図的に制限して、その中で動作の自由度を獲得する」という武道の修行観を連想しました。
普段の身体所作を、その動作に普段使用する部位を使わないでやろうとすることで、普段は使わない身体部位が使われる、活性化する。
たとえば、腕を振らないで歩けば、歩行動作に体幹が導入される。
一本歯下駄は地面を蹴る際に足指のバネが使えない(わかりやすくいえば「背伸び」ができない)ために、その不自由を補完するように足首や股関節が歩行に(積極的に)参加するのかなと今思いつきました。
 
ちなみに、サンダルで歩く間ゲタはどうしていたかというと、一対を麻紐で束ねてリュックのベルトに取り付けていました。
積載容量を減らさずにゲタを積載できる、かつ着脱が容易である、という仕様を満たすリュック(というか登山用ザック)を、旅の前に選んで買っていました。
その準備期間に書いた記事と写真を載せておきます。

サンダルで歩く際はゲタをリュックの「お尻」に(写真参照)、またゲタで歩く際はリュックの「背中」に、それぞれベルト部に挟み込んで収納します。
cheechoff.hatenadiary.jp
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「ゲタの歯摩耗問題」は、旅のあいだじゅう、懸念事項としてつきまとい続けました。

歯が「非水平」に削れていく、というのは、ふつうの靴で歩いていても踵の削れが内側か外側に偏ることから想像はつくと思いますが、その現象が与える影響は靴よりもはるかに大きい。
なにしろ、歯底が左右に傾いていれば、まっすぐ着地したつもりでもゲタの台座がその傾きに忠実に斜めになるのです。

歯が斜めに削れる要因は、主には歩き方と道路状態の2種に大別されます。
が、それを頭で理解して、経験と結果から方針の修正(つまり、歩き方を変える、道路の歩く位置を変える)を図っても、決して想定通りにはならない。
そのトライアンドエラーをこの旅の間ずっと続けていました。

のちに、この問題は幾度も日記に顔を出すことになります。

思えば、晴れなら今は草履で外を歩いていますが(季節柄、というわけでもなく、冬でも五本指ソックスとともに履いています)、普段歩きがそのまま「歩く作法」の探求(これにおける「到達(完成)」や「飽き」というものの気配は微塵も感じません)になっている、また理由さえあれば(なければ適当にでっちあげて)いくらでも歩ける、といった少々偏執狂的な性質は、この歩き遍路時代(たった2ヶ月ですけど、「時代」と呼べるほどの濃密さがありました)を通しての「危急の要請」に応え続けて身体化したものでしょう。
 

(2)いわや宿[前日泊まった宿]にて
夕方の受付のおじいさんはガイドで、定年前に[以前いた会社を]辞めて高知に来た人。
仕事は[必要以上に?]もうけない、毎晩飲んで近所付き合いして...の悠々自適の生活を語っていた。
高知は収入が沖縄に負けて日本一低いが、それだけ物価も安い。
3万あれば一軒家を借りられるし、彼の戸建ても180万。
ポジティブな町(高知が)で、居酒屋多い。

 
もちろんこれは全部、このおじいさんから聞いた話。
統計データは、今もそうなっているのでしょうか。
 

(3)テンションの高い女性
香南市役所付近の駐車場で呼びとめられ、「ゲタの人探してたんです」と言われる。
こちらの話が通じず言いたい事を一方的に喋られた感じだが、ゲタ遍路(一本歯かどうか不明)や竹馬遍路というのが実際にいたらしい。
そういう発想は持つべき人は持つ。

 
この「べき」はもちろん当為ではなく、必然とか、宿命とか、そういうもの。
 

所感:
国分寺でジャック(仏)[←フランス人]と再会した。
薬王寺で[最初に]見かけてからこれで四度目(あとは鯖大師[同宿]、徳増への道中)。
歩くペースが同じということだが、[己の]ペースが遅くて他にいないだけに驚いた。
「あなたみたいな人には滅多に会えない」と言ってくれたが気の利いた返事ができなかった(So you're very lucky! くらい言ってもよかった)。
一期一会、と思っていたらそうでもないこともあるのだ。

 
自分は道中で同じ歩き遍路からは追い抜かれてばかりで、その日会った人と同じ宿に泊まるとか、同宿が二日続くことは時々ありましたが、何度も会う人はそう多くありませんでした。
歩くスピードが同程度の歩き遍路同士なら、それこそ毎日どこかで顔を合わせたり、同道するようなこともあるでしょうが、やはりゲタはふつうより遅い。

この日、出発から通算四度目に会ったジャックは、左右二輪の荷車に荷物を載せて、台車の持ち手を腰に固定させて(両手には歩行用ステッキを持って)歩くという珍しいスタイルでした。
たしかリュックも背負っていたので荷車に何を載せていたのか不思議ですが(キャンプ用品かな?)、なかなか重そうだったそれを引きながら歩くために、たまたま僕と同程度のスピードで旅をしていたのだと思います。

どちらも英語が苦手で、再会した驚きの大きさを表情でしか伝えられないもどかしさを、いつも感じたものでした(この後も、何度も再会することになります)。

ジャックに限りませんが、道中で海外から来た人と会うたびに(いや本当に沢山いました。Japanese Henro は、スペインの巡礼道サンティアゴ・デ・コンポステーラに興味を持つ世界中の人々にとって有名です)、英語をもっと話せるようになっておいたらよかったと思いました。

まあ、その時だけですけどね。
外国語の習得に切実さが宿ることは、日常的にそれを喋る機会に迫られるほかありません。