human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

マジックミラーの「閉鎖系多重反射」の怪

先の記事を書いていて、最後に読み返す時に、別の進路へ派生する思いつきがもう一つあったことを思い出しました。
cheechoff.hatenadiary.jp
以下の引用は再掲です。

「お前は誰だ」と訊かれて、優等生の言葉は風紀係の教師に向かい、「私は私だ、あなたの思っているような人間ではない」と答える。しかし非行少女の答え方はそれと全く異なっている。彼女は言う、「私は、あなたが私について思っている、その通りの人間だ。というより、あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。私はゼロだ。私は空虚だ。あなたが私にステレオタイプの像をかぶせる。すると私は、『ステレオタイプ』それ自身になるのだ」と。

「ラディカルの現在形」p.155(加藤典洋『ホーロー質』河出書房新社、1991)

下線部について、他者によってアイデンティティを確立するのは、原理的にはこちらが主流で、個性の自己確立という物語が補助である、と先に書きました。
実際は、社会集団の維持のためにアイデンティティが成立する過程は、この両者がバランスをとって進行するのだと思います。
このメカニズムは、歴史的にみて過去も現在も、変わらないように見える。

けれど実は、現代では事情が違ってきているかもしれない、というのがその「もう一つ」です。



あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。

資本主義・消費至上社会における「理想の消費者」像は、上記のアイデンティティ確立において、「こちら」、上記の主流が100%であるという構成をもちます。
商品の購入、サービスの利用を通じてなりたい自分になっていく、「なりたい自分」に近づくプロセスの全てがそれら消費活動によって成立しているなら、その「なりたい自分」は自分以外の誰かが考え出したものである。


上で「バランス」と書いたこと、それに対してここで「100%」と書いたことの意味ですが、

自分が「他者がこう思う自分」になる、そういうプロセスと、「他者がこう思う自分」から外れていくプロセス、この2つが経時的に混ざり合うことでアイデンティティが形を成していくが、混ざり合うがゆえにその形成プロセスに終わりはなく、それが人が変化し続けるエネルギィの源となる
ところが、自分が「他者がこう思う自分」になるプロセスだけでアイデンティティを組み立てようとすると、停滞する。
科学技術の発展による生活機器の進化とか、ファッションの変化とか、そういうことが(一人の人間が生きている間に)ずっと続いても、そのこととは関係なく、停滞する。
選択肢が多くあること、そして選択肢の個々が改新されること、そのことが問題なのではなく、「明示的な選択肢から選んで自己確立する」という一つの物語しかないことが問題である。

 × × ×

何か堅苦しい話になりましたが、最初に書きたかったのはもっとシンプルなことでした。
三たび、引用します。

あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。

日本のトップの人からしてそうなんですが、みんながみんな、これを「やりっぱなし」のような気がふとしたのでした。


二人の人間が、お互いを認め合うという場合、その二人はもちろん、異なった個性を備えている必要があります。
自分とは違う人間から、その違いを認められ、自分という存在を受け入れられることで、他者の承認に基づくアイデンティティの確立がなされる。

たとえばこれが、自分と同じ人間だとお互いが相手に対して思う、二人の人間のあいだで起こるとどうなるか?
「あなたが私についてこう思う、それは私がなりたい(なっている)と思うそれである。」
たとえばお互いが相手に対してこう思っている二人が、互いに承認し合うと、何が起こるか?

そういう人々の頭の中において、他者の定義はきっと、
「自分にとって未知なる者である」
ではなく、
「自分がこう思うような者が他者である」
ということになっている。

それを「気持ちがいい」と思ってしまえば、もうそれまでのことである。

人は、ステレオタイプをなぞり、ステレオタイプを追い抜き、ぼく達に言う。私は「ステレオタイプ」なのだ。私はあなた方が作った、私の考えていることを、さあ、あててみろ、と。