human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「遺産過多」の時代、消費対象としての時間、キュレーションと自販機

(…)しかし、すでにシャトーブリアンがこの加速化の経験を旧秩序の廃墟の抗いようのない徴と見ていたし、[ロバート・]ムージルもまた「加速化主義(accelerisme)」という表現を作っている。アレヴィはその試論をミシュレの引用から始め、ヒロシマのその後について書くことで筆を置いている。「ミシュレが注視することになった大変な出来事のひとつ、そして、最も注意を払われなかった出来事、それは時代の速度が完全に変わってしまったということである。時間は奇妙な仕方で歩を速めた。ありふれた人間生活の空間に起った二つの革命(領土における、産業における)である」。より広く言って、この速度の変化が、近代の時間秩序を構成している。
p.209-210

今いちど時間については、彼[エール・ノラ]の出来事についての省察により、出来事の消費社会における新たな地位と、時間というものを把握するための方法との関連が示唆された。「我々が出来事を服せしめているような方法はおそらく、時間そのものを消費対象にしてしまい、そのような情動を与えてしまう(…)方法なのではないか?」ここでは提案の形で、現在主義のもうひとつの要素が示されているのかもしれない。時間は、消費の時間のなかにとらえられ、それ自体が消費の対象となるのである
p.208

フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経験』

しつこく再読を続けています。

なにか、すぐには離れられないものがある。
理解し切っていない部分があるからというより(そんなものは腐るほどある)、たぶん、自分ではもう理解していて、ただ言葉にされるのを待っているものがある、その言葉を待っている(お互いが待ってたら進みませんね)…探しているようである。


「時間経験の加速化」が言われています。
単純に、何をするにも時間の短縮が望まれ、求められている。
同じ結果に対し、かかる時間はなるべく少ない方がよいとされる。
(ところで「同じ結果」とは何か? 予測のなかで経過時間だけを比較対象にすることで一体、どれだけのものが切り捨てられているのか?)
効率化、コストパフォーマンス、といった用語に絶対的な価値が付与されている。
あるいは、スローライフはそれらと同じ価値観に沿った対抗派閥に過ぎないかもしれず、ゆっくり、ゆったりとした生活を手に入れた人々はみな、寸暇を惜しんで働いていた過去をもっているようでもある。

「遺産の時代」ということが書かれています。
自然遺産、文化遺産、記憶遺産、…。
環境破壊の問題が前景化し始めたことと関係があるかもしれませんが、ある時期から、遺産の保全ということが言われ始めた。
あるいは、「9.11テロはそれが起こっている最中に歴史に登録された」とも書かれていますが、メディアの隆盛、記録技術の発達、そしてインターネットという世界を網羅するアーカイブの存在が、現在的な出来事が過去になる前に、分析され、評価され、解説され、整理されて歴史となる。
出来事を過去にさせない、あるいは歴史に新たな価値を付加して現在に呼び戻す。
これは、予測によって未来を現在に引き寄せる、予知がこれから起こるはずの出来事との間に存在する時間を取り除く、のと同じ、現在主義の特徴の一つです。

 ノラにとっては、加速化によって、単に集合的記憶、すでにアルプヴァクスが述べていたような「統一化することの不可能」な集合的記憶の「複数化」がもたらされるのではなく、過去との「断絶」がもたらされる。それは経験の地平との断絶である。グローバル化民主化、大衆化、メディア化は、ノラが「社会=記憶」と呼ぶものの目指すところ、一言で言って、記憶の消去につながっている。

同上 p.210

過去との断絶、経験の地平との断絶。
そして、記憶の消去。

これらのキーワードは、記憶に残そうとして整備したはずのアーカイブが、当時の経験を呼び起こして現代の人々に訴えかける力を失い、現在との関係が切れてしまった単なる過去の記録になってしまった、という状態を表しているように思えました。

 × × ×

毎年この時期になると、テレビでは太平洋戦争の特集が放映されています。

先週末の夜に実家で見た番組では、ガタルカナル島での米軍と日本軍の戦闘について、一木大佐率いる陸軍一小隊がいかに全滅に追いやられたかを、米軍の作戦記録をもとにした再現CGなどを使って解説していました。
日本海軍が陸軍を別の作戦のために囮に使うという名ばかりの共同作戦、そのせいで大本営と通信が取れず、先行させた偵察隊が全滅して勝機もなかったのに作戦を強行した小隊の愚策、飛行場を奪還に来る小隊を予期して待ち伏せ、島の地形も味方につけて殲滅作戦を組んだ米軍の周到さ。

言いたいことはよくわかる。

防衛大学の軍事研究家なる人々の仕事の成果としてなら、番組を見ている人にも伝わると思う。
でも、番組制作者の意図は軍事研究家とは違うはずで、その相違点(これが特番の存在意義だと思うのですけど)が、当の殲滅戦で生き残った人(谷川俊太郎に似てましたね)へのインタビューで当時のことを尋ねた時に声を詰まらせて涙する、という場面に帰されているように思えた。
定型、ひな形の踏襲。
「無難」が褒め言葉になる、上出来な特番。


これはたぶん「関係が切れて」しまっている典型例なのでしょう。

戦争の悲惨さ、日本軍の愚かさ、これらは確かに見れば伝わる。
でも、それを知りつつ、現代に戦争を待望する人々も確かにいる。

もちろん原因は「戦争特番が抑止力になってない」とかいう話だけではなく、戦争をゲーム感覚で捉える価値観もあるし、閉塞的な現在の生活から後先考えず抜け出したいという思いもあり得るし、悲惨な写真を見ても「他の人間には起こるかもしれないが自分は大丈夫だ」と他人事に解思える無根拠な自信だってあるでしょう。

あるいは1つ目に関係しますが、定型の風化ということもあります。
それを見れば「戦争はよくない」と誰もが思うもの、そういうものを形そのままに(あるいは上辺だけ違う風を装って)使い続けていると、それが持っていたメッセージ自体が変化してしまう。
言い方を変えれば、不変のメッセージを継続的に使用すると、その「時間的に不変であること」自体が新たなメッセージ性(文脈)を帯びる

マクルーハンのいう「メディアとはメッセージである」ですね(違うか)。

 × × ×

話を戻します。

先の抜粋のキーワードを再掲してみます。
「過去との断絶」、「経験の地平との断絶」、「記憶の消去」。
これらと、その抜粋の少し上に書いた「遺産化の時代」、「出来事のアーカイブ化」とが、自分なりに繋がる気がして、本記事の動機はそれについて書くことだったのでした。


キュレーション、あるいはキュレーターという言葉が流行りだしたのはわりと最近のことだと思います。
weblioでキュレーションを調べると、「情報を選んで集めて整理すること。あるいは収集した情報を特定のテーマに沿って編集し、そこに新たな意味や価値を付与する作業」とあります。

情報が溢れるほど増えてくると(実際は「入手できる情報が溢れるほどにツールが充実してくると」)、自分に興味のある分野だけに絞ってもキャッチアップするのが大変で、重要なものだけ取捨選択しようにもそもそもその選択自体が難事であって、そこにキュレーションの価値が生まれるのは当然です。

僕自身は、情報検索のためにネットに潜り込むとリンクを辿りすぎて収拾がつかなくなるのでキュレーションはあまりやらないし、得意ではありません。
だから、キュレーションの出来不出来を実際的に判断できるほどの目は持ち合わせていません。
つまり、まあ言い訳のようですが、以下は抽象論になると思います。


出来事(もの)の遺産化、アーカイブ化というキーワードと僕の中でつながったのが、このキュレーションという行為でした。
そして「経験の地平との断絶」という言葉とも。

かりに、過去の出来事が現代にもいきいきと訴えかける力を持ったものを「記憶」、そうではなくただの時系列的な事実の羅列に留まりインスピレーションを喚起しないものを「記録」と呼ぶことにします。
「記憶」が「記録」になってしまうのは、そこから時間が抜け落ちたときです。
過去の出来事に触れたとき、その人が時間を感じることができればそれは「記憶」であり、できなければそれは「記録」である。
…非常にぼやっと書きましたが、「ではそこでいう時間とは何なのだ?」ですね。

僕が印象として持つキュレーションの一つの形態として、「書評」があります。
書評を読めば、その本の全部を読まなくても短時間で要点がわかる、キーワードが拾える。
そのことに依存はなくて、ある種の本は、本そのものを読むより書評を読んだ方が効率的であることも認めます。
でも、はっきりしているのは、ある本を読む経験と、その書評を読む経験は明らかに違うということです。
何が違うか、考えるまでもないですが、本を読むには「時間」がかかる。
いかにハウツー的な、情報収集系の本であろうと、それを時間をかけて読めば、読む途中で読者の置かれる状況は変わり、考え方だって変わる。
同じ内容の文章であっても、読む人によって受け取り方は変わるし、同じ人でも読む状況(状態)が変わればやはり受け取り方は変わる。
「時間」はこのような影響を与えます。
それがハウツー本ではなく小説であれば、本と書評の差はもはや歴然としています。


「記憶」と「記録」の埋めがたい差を生み出す要素である、「時間」。
これについて概念的に語るのは難しいのですが、最初の抜粋でノラが書いている通りなのかもしれません。

「我々が出来事を服せしめているような方法はおそらく、時間そのものを消費対象にしてしまい、そのような情動を与えてしまう(…)方法なのではないか?」

「我々が出来事を服せしめる」という表現。
「服せしめる」とは、従わせる、征服する、といったことでしょう。
そう言い直したとき、この表現はとても恐ろしい響きを持ちます。
出来事が現在起きている只中に歴史化する、という文脈とも通じます。

そして、「時間そのものを消費対象にする」とは、時間を、「時間がかかる」とか「時間をかける」とかいうものとは別物とみなす、ということです
「金で時間を買う」という言い方が出現したのは、「時間で金を買う」振る舞い、つまり金儲けが過剰になってからのことです。
自分の時間を取り戻す気でいながら、その時間とは換金可能な対象である。


消費社会の宿痾であるとは思います。
でも、個人はシステムとは違うという自覚があれば、個人の中で「それ」が度を越すことはないはずです。

 × × ×

最初に思いついた言葉を書くのを忘れていました。

キュレーションとは、いやそれによって作られたものは、自動販売機のようなものではないかと思いました。
ボタンを押せば、欲しいものが待たずにゴロンと転がり出てくる。


自動販売機は、作るのは面白いのです(作ったことないけど)。
そこには、その行為には「時間」があります。
ただ、自動販売機を使う経験に「時間」はない。
自動販売機こそが、時間(経験)を省略するために存在するからです。

そして、アーカイブの時代というのは、国家の遺産保全プロジェクトから個人のブログまでも含めて、誰もが自動販売機を自作する時代である
作るのは楽しい。
使う人のことを考えながら作るのも、興味深い。

ただ、
使う人が、
その自動販売機をブラックボックスだと思って使う限り、
そこに「時間」は存在しない


「現在主義は、時間経験とプロセスに盲目である」と言ってよいかもしれません。