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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「ゲシュタルトクライミング」 〜アフォーダンスがクライミングを進化させる〜

 
最近造語ばかりしてますね。
まあ、それが文章を書きながら考えてみようという動機の発端になってはいます。

 × × ×

先日出品したセットの作成過程で、佐々木正人氏の本を少し読み直しました。

3tana.thebase.in

前に読んだのは学生の頃なので10年以上前で、
その時はいろいろと衝撃を受けたんですが、
今読み返しても面白いし、発見も着想も多々あります。
そのうちのひとつ。


アフォーダンスとは、本書によれば「周囲環境に含まれる意味」のことで、
この概念のキーポイントは、環境が人の行為を発動させることにあります。
環境と言うと漠然とするので言い換えると、
人が動くにつれて、連続的に変化する環境情報。

アフォーダンス創始者ギブソンの用語には「包囲光」というものがあって、
人を取り囲む空間や物を客観的な静止物と見るのではなく、
視覚はそれらが反射する光の連続的な変化をとらえるのであり、
その光には連続面、境界、肌理(の細かさ・粗さ)などの分別が含まれます。

…という理論解説は用語が怪しいのでさておいて、
ライミングボルダリング)にアフォーダンスはどう応用できるか
という観点で、自分はあらためて読み直してみたのでした。
以下は、思いつき(というか、これから思いつくであろうこと)です。

 × × ×

ライミングに限らず、スポーツ全般において、
身体をどう動かすか、という観点で語られることが多い。
ライミングなら、指をどう使う、腕だけでなく肩や背中を使う、云々。
これらは全て、考察が人体の内部で閉じている。

ボルダリングでは、ホールドをいかに有効に使う(効かせる)かも重要です。
形状や表面粗さから、持ちやすい持ち方や効かせやすい方向を知ることができる。
これは、人体と対象物(ホールドや壁)の相互作用という観点です。
ただ、理論としては、力学(物理学)ですべてを語ることができる。


ここで、アフォーダンスを登場させます。
壁にあるホールドは、「クライミングアフォーダンス」を持っている。
真下に引きたくなる、横に押したくなる、踵を引っ掛けたくなる「佇まい」をしている。
個々のホールドだけでなく、周囲のホールドや壁(の形状、傾斜)との関係込みで。

自分がアフォーダンスについて考える時にいつも出てくる例を挙げるんですが、
地上の街を歩いていて、地下鉄の入り口の階段にさしかかった時、
それまで一定だった歩幅が、階段を降りる直前の数歩、狭まったり広がったりする。
むろん階段の降り始めで踏み外さないためですが、それはだいたいが無意識になされる。

行為において、人は周囲環境のアフォーダンスを無意識に(時には意識的に)活用している。
言い方を変えると、アフォーダンスの無意識的活用は「自然な動作」である。
これを逆に言えば、考え込んで解読を要する周囲環境は(その始めは)不自然な動作に帰結する。
自然と不自然の差は、一連の動作の持続が長時間にわたるほど、顕著となる。


ホールド一つの効かせ方と、ムーブ全体におけるアフォーダンスの把握は、恐らく次元が異なります。
ムーブに含まれる個々のホールドの有効活用の総和が、そのアフォーダンスとなるわけではない。
この観点からして、ライミングにおけるアフォーダンスは「ゲシュタルト的」であるとも言えます。
ゲシュタルトを簡単にいえば「還元的・部分分析的姿勢の正反対に位置するもの」でしょうか。

課題の個々のムーブをバラして登れても、通すと上手くいかないことはよくあります。
その原因が体力不足にだけあるのではないことと、今している話とは関係があります。
「ムーブの流れの良さ」と言えば、これは身体動作からの視点による表現となります。
同じことに見えそうですが、これを「アフォーダンスの有効活用」と言えば、違う意味が生まれます。

自然な動作は、アフォーダンスの無意識的理解が導くものだと先に言いました。
トライする課題に対して、こう登るのが自然だ、違和感がない、気持ちいい、という感覚。
それは、慣れないムーブを繰り返して習熟することと、完全にイコールではありません。
「ホールドがこう持てと身体に囁いている」、あの「ゴーストがそう囁くのよ(@攻殻機動隊)」というやつ。

…かどうかは知りませんが、身体と課題(=ホールドと壁)の心地よい協調に意思が従うということ。
もちろん、無理やりとか力づくで登る課題だってあります。
それは言い換えれば、特定部位(腕とか指)を激しく動員する必要のある課題です。
そのような課題でも、無駄な動きや、ホールドの活用ミスがあれば、さらなる違和感として表れます。


話を少し変えますが、佐々木正人氏の先の本の中に、J・ピアジェの理論の話が出てきます。
赤ん坊のリーチング(ものに手を伸ばす行為)の研究を通して、人間の動作の習得のことを、
「見ている世界」と「自分の運動について知っている世界」の、安定した幸福な結合と表現しています。
これを読んで僕は、ボルダリングの醍醐味が的確に表現されているなあと思いました。

リーチングにおいては、「見ている世界」とは周りの大人の動作を指します。
一方、それを真似しようとして手足をバタバタさせたり、頭が左右に揺れたりする、
思い通りかどうかに関係なく、赤ん坊の動きそのものが「自分の運動について知っている世界」です。
この前者と後者が一致する、目の前にあるおもちゃを掴む瞬間が「幸福」として体験される。

ボルダリングとは、この赤ん坊の「幸福な体験」をひたすら繰り返す営みだと言うこともできます。
スタッフさんや他の人の手本ムーブを見ることは、クライミング行為における「見ている世界」です。
その中には、どうやって登ろうかと頭の中で色々と想像するオブザベーションも含まれます。
そして、その通りに登れた時に、「自分の運動について知っている世界」がそれと一致する。


話はまた逸れますが、僕はこの点からすると、クライマーと観客は両立するのかと疑問を感じます。
両立と言うと変ですが、要は他人のムーブばかり見ていると「幸福な体験」から離れていかないか、と。
自分より上手な(強い)人の動きは参考になりますが、それが今の自分に明らかに再現不可能な場合、
「見ている世界」が肥大して「自分の運動について知っている世界」からどんどん遠ざかっていく

僕自身は、これからトライする課題の正解を自分で見つけようとするのが好きで、
最終的に知らないまま終わってもよく、従って(特に強い)人が登るのをあまり見ないタチなのですが、
これを「自分の感覚が狂うから」とだけ思っていたのですが、今こうして考えていてなるほどと思います。
自分はボルダリングの面白さを、多くの課題をこなせるようになるだけでなく、

赤ん坊が身体動作を習得するのと似た充実にも感じるのだ、と。


話をアフォーダンスに戻します。

ボルダリングアフォーダンスの概念を取り入れると、「良い課題」の考え方も変わってきます。
例えば、こう動けば自然だろうな、とオブザベで思わせ、実際そう登れば気持ち良く落とせる課題。
アフォーダンス的には、このような課題を「良い」(少なくとも「自然な」)課題と見なせます。
もちろん、見てすぐわかってしまう課題は、打ち込み甲斐がない意味ではマイナスでもあり得ます。

だとすれば、オブザベで散々悩ませ、いろんなムーブを試させるトライを重ねていくうちに、
ふと流れが繋がって、最初から最後まで(あまり力まずに)気持ち良く登れた。
そのような課題は、身体の自然な動きや身体とホールドの自然な相互作用を新たに発見させる、
クライマーのアフォーダンス把握能力を向上させてくれる「良い課題」だということになります。

この見方によれば、課題におけるホールドの使い方にも新たな意味を見出せます。
見た目からは想像もつかないホールドの使わせ方をする課題は、パズル解読としては魅力的です。
が、その使わせ方があまりに不自然であれば、アフォーダンス読み取りの違和感にもつながります。
身体動作の流れ(ムーブ)が自然であっても、その動作を課題に適用する段階で不自然な場合がある

…こともあるかなあと頭で考えてはみましたが、これも一概に言える話でもありません。
動作の実現においていっけん不自然に見える周囲環境を、着眼点を変えるなどして、
身体に自然に作用する環境に読み替えることを、アフォーダンス把握能力と考えることもできるからです。
ゲシュタルトライミングの探求には、力学だけでなく、生理学や心理学にも通じる必要があります。

 × × ×

思いつくまま脈絡なくバリバリ書いてしまいましたが、
ゲシュタルトライミング」という考え方は、掘り下げていけばとても面白そうです。
甲野善紀氏の著書に触発されて武道をクライミングに活かせないかと思いつき、
その時キーワードにした「武道的ボルダリング」ともリンクというか、相性の良さを感じます。

イワシの群れが方向転換するような身体運用」という比喩を甲野氏(や内田樹氏)はよく使います。
中枢(脳)からの命令ではなく、身体全体が同時瞬間に協調的に(一方向あるいは多方向に)動く。
これも、手や足や胴体の動きを足し合わせれば全身の動きになる、という単純総和とは異なる観点で、
つまりはゲシュタルト的な身体運用であると言えます。


今後は、古武術だけでなく、アフォーダンスも意識しながら登っていこうと思います。
 
 × × ×