human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Galera2級初クリア、鍛えずに登る、三度入り口、etc.

galera-climbing.com
大阪へ来て、ガレーラ↑に通い始めて1月半、昨日ようやく2級課題(スラブ)を初クリアしました。
常設課題ではなく月ごとにホールドの配置が変わるマンスリー課題ですが、マンスリーの中では3級が未だ一つも登れていない中の、唐突なクリアでした(常設課題でも3級クリアは2つだけ)。
岩手のジムでも1年間の最終盤は2級をいくつかクリアしていましたが、あそこは「ボルダリングが地域に根付くように」というオーナーの方針で人工壁の全エリアが(ある級までは)中学生でも登れるホールド間隔がちょっと狭めのコースで構成されていたので、級設定もほかのジムよりは甘めに付けられていました。
なので今回の2級クリアにはひとしおの達成感があります。

もともとスラブのバランス系課題が得意というのもあり、普段は一人で黙々とやっているのが昨日はたまたま同課題をトライ中の3人で一緒に試行錯誤しながらすることになったお陰もあります。
そのせいか、ジムにいたのは3時間でしたが、帰って翌日の今日は身体がへばって、昼まで動けませんでした。
こっちは別に、珍しいことではありませんが。

 ✕ ✕ ✕

www.youtube.com

このジムでは初心者・初級者のための登り方講座をyoutubeにアップしています、ということをつい最近知りました。
動画↑に出ているジムのオーナー、むむさんが中心となって、閉店後に時々撮っているそうです。
ムーブよりも先に、こういうシンプルな「コツ」(方法以前の、心構えに近いもの)を教えてもらえると、ボルダリングに対する印象も、続けていく方向性もだいぶ違ってくるものだと僕は思います。

僕は「なるべく腕に負担がかからない登り方」を岩手で始めた頃から心がけていて、「手よりも足が大事」なのは実感としてとてもあります。
時間が豊富にあった岩手での1年間はストレッチにかなり時間をかけて(ウォーミングアップとクールダウンにそれぞれ30分以上)、登る合間に股関節のストレッチを挟んだりもして、お陰で柔軟性の高い下半身主力クライマーになりました。
(最初に書いた2級課題も、他の人が思いもつかない所でヒールを使う(踵で立つ)ことでクリアしたんですが、股関節の強さと軟らかさがあってこそのムーブだったと思います)

上の動画の中でのポイント、というか僕が「これはいい」と思ったのは、呪文として頭に刻み込んでもいい「足、足、手」です。
どのホールドを掴んで体を引き上げるか、と上ばかりを向いて登る初心者は、腕の力だけでなんとかしようとして、ろくに足元のホールドに体重を載せられずに腕がすぐ消耗してしまいます(男性で、特にスポーツ経験者で腕っぷしが強い人だとそれでも登れてしまい、その登り方がクセになってある段階で行き詰まってしまうことがあります。「ボルダリングは女性の方が向いている」と言われるのも同じ理由で、腕の力がない分だけ自然と体全体で登ろうとするからです)。
壁にはりついた状態で動きがストップするとどんどん消耗していきますが、そうなることを嫌がって焦らずに、「どのホールドに足を乗せれば体重をしっかり預けられるか」を、下を向いてしっかり見極める。
人工壁でいちばん簡単なコースはどのジムでも「足自由」(手は指定されたホールドのみ使うが、足はどれを使ってもよい)ですが、足自由課題の本来の意味というか、それでこその活かし方がこの「足のせ感覚をつかむこと」にある、と動画では解説されています。

この登り方講座の第2弾がつい昨日アップされました。
僕も近いうちに見ようと思います。
(動画の説明書きからすると、ダイアゴナルとかちょっとムーブ的な話になっていそうです)
www.youtube.com

そうそう、大事なことを…
ボルダリングは身体を敢えて鍛えなくても、けっこう登れるようになります。
片手指数本でぶら下がる、みたいな常人離れした動きをするには相当かつ効果的なトレーニングがいるでしょうが、ジム通いを日常生活に組み込んで、週1ででも登っていれば、登るために必要な力は勝手についてくる、とクラムボン(僕のホーム、岩手・北上のジム)のオーナー、オサムさんは言っていました(オサムさんは実際「片手指でぶら下がれる人」ですが。生で見た時は(ミラーニューロンの働きで)自分の指がちぎれる思いがしました)。
僕は初心者の頃に聞いたその言葉を呑み込んで、筋力トレーニングはせず(ストレッチのみ)、登ったあとにプロテインを飲むこともしませんでした(疲労回復のブドウ糖摂取と、あと一度タンパク質渇望感に襲われてからは豆乳を飲んでいます)。
柔軟性だって、足(というか体全体)を意識して登っていれば勝手についてくるものだと思いますが。

 ✕ ✕ ✕

書き始める前に書こうとしたことまでたどりつきませんでした。
ボルダリングに絡めての、ものづくりの仕事として「つくりたいもの」と、身体性(の賦活)、そしてコンヴィヴィアリティの話(つまりこれの続き)にまで到達できそうな予感があったんですが、脇道に長居してしまいました。

まあ、身体を動かしていると自然と至る感覚(身体感覚の活性に導かれた思考の活性)なので、いずれまた戻ってこれるでしょう。

でもちょっとだけ。

ボルダリングによる身体性の賦活とコンヴィヴィアリティ(=自立共生。イリイチの用語。適度にローテクな(広義の)道具の活用を通じて、人が生活や仕事で自主性・創造性を発揮すること。←自分の言葉で今考えて書いたので、いい加減な定義説明です)とがさっき頭の中でリンクして「あっ!」という驚きがあったことだけはメモしておきます。

 ✕ ✕ ✕

生き延びようとする衝動は生物の性、
けれど意識をもった人としては
「生きたい」という意志をもって生き延びたい。
社会が、世界がどうあっても。

この、意識の底また底にあるものと、仕事とが結びつけば、仕事はその重みを格段に増すことでしょう。
それが苦しみであるとして、僕自身はそれを引き受けるべき苦しみだと思っている。
苦しむのが嫌なら、死んで楽になればいい。
もしかして、「生きたい」と公言する恥辱は、それが「苦しみたい」と同義であることの隠れた認識に端を発するのではないか。

この掘り下げは、形式に、手段に堕さない言葉が息を吹き返す一つの道になるという予感がある。