human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Red Research, Purple Physics 3/n

 
 "Colorless insight makes outsight colorful."

 × × ×

──クライミングをやっていて、体幹という言葉をよく聞くようになりました。腕の筋力とか指の把持力とか、そういう末端というか、局所的な力とは反対のものを指すようで、たとえば「体幹を鍛える」なんて言えば、僕の解釈ではそれは全身のバランスをとるためのエクササイズのことで、具体的には背中とか腹筋とか、あと股関節が体幹の指すイメージです。今挙げた部位も、身体の一部という意味では局所にあたるんですが、全身を動かすうえでの中枢となる部分です。鍛えるというよりは「うまく使う」と言った方がしっくりきますが、つまり身体が動く時にその中枢部をしっかり起動させる、指先や足先に負荷をかける時にそれを中枢部が支える。あるいは末端の負荷を全身に分散させる。体幹を活かせれば、末端が持つパワーや持久力に限定されないパフォーマンスを発揮できる。
 もちろん末端を鍛えれば鍛えた分だけ、より強く登れるようになりますが、それは線形というか、努力と効果の関係がはっきりしています。僕はそこにあまり興味はなくて、たとえば話は逸れますけど、昨日初めて行ったジムでオーナーさんがお客さんと話しているのを小耳に挟んでいたんですが、『今のクライミングの世界って、ひたすら鍛えることだけを考えていて、寝て起きて登って食って(で時々セックス)、っていう生活ができる奴が強いんだよね』なんてことを言っていて、要はお金とクライミング環境が実力に直結していて、クライミングだけに集中できる生活の余裕がない人間はトッププレイヤーにはなれない。これは別にクライミングに限らず、あらゆるジャンルのプロスポーツの現状に当てはまると思います。別にそれ自体は世界が豊かになったことの当然の帰結であって、良し悪しを判断することでもありませんが、僕はこういった予定調和な、やることをやれば思った通りの未来がやってくるという『ああすればこうなる』式の事柄には関心がありません。予想通り、という展開を人はよく好みますが、それは大体の予想が外れるからであって、確実な未来があるとしたら、それはもはや現在であって、想像の対象には入らない。

──なにか、現代は頭を使う人間が減ったという印象を勝手に持っているんですが、それはたぶん、想像をしなくなった、する価値がなくなったから。頭を使うのは、欲しいものを手に入れるとか、やりたいことをするために、何をすべきか、どういう手順でどれだけ時間がかかるか、といったこと。いや、これは現代に限ったことではありませんが、なんというのか、確実さ、「実現可能性の高さ」に対する格別の重み付けが、現代特有ではないかと思うのです。それができるのか、できないのかが、高い確度で判断できて、できるのならばやる、できないのならばやらない。博打をしない堅実さの現れという見方もできますが、僕はそれは一種の平和ボケ、人生がそもそも博打であることを忘れているだけだと見ます。別に僕は賭博に興味はないし、一か八かの人生の選択が生きる醍醐味だなんて思ってもいませんが、たぶん、想像に重きを持つ人間として、「こちら側」にいるんだろうなあと今考えて思いました。生活が常に未知に開かれていることを目指せば、自然と堅気から離れていく。変化のないルーティン的な日常が下地にあってこそ微細な変化に気づき、その色彩やかさを感知できる、という次元を上げた堅気というのもあって(内田樹氏はこれでしょう)、僕はこちらを目指したいですが、難しいのは「次元を上げること」を当然の認識とすることです。たぶん、生活のなかで具体性と抽象性を同時に追求する姿勢が必要で、そして具体的なところをしっかりさせると普通はそちらにかまけて抽象性が薄まっていくんですが、できる人間は具体性の充実をそのつど抽象性に昇華できる。個体→気体を昇華といいますが、この逆も昇華なので、ここでこの比喩を使うのはなかなか適切で、つまり具体性と抽象性の循環のことを指しています。今の僕はこの「同時追求」を実行しつつも、具体性の側に堅気の安定が不足しています。これは別に、抽象性の側に求めてもいいのですが。なんだか、すごく抽象的な話になってしまいました。

──話がズレたので戻します。何度も言ってきたことですが、僕は単純にクライミング技術向上を目指してボルダリングをしているわけではありません。では何のためか、というと、一つは身体性の賦活であると。こう言って、身体性について言葉にしていく難しさがあっていつも挫折してきたのですが、今回は少し頑張ってみようと思います。昨日はジムに8時間近くいて、ほとんど休憩もしなかったので最後の方はよれよれだったのですが、ヨレて登りながら、ふと身体に感じるところがありました。
 ヨレるというのは、これもクライミング用語で、指や腕に力が入らなくなって、元気な時に登れるコースが全然登れなくなる状態を指します。ふつうはヨレてから登ると思わぬケガにつながったり(手のコントロールが利かなくてホールドにぶつけたりとか、変な落ち方をして足や腰を痛めるとか)、筋肉疲労以上のダメージを身体に与えたりするので推奨はしませんが、一方では、無理をしないで軽めのコースを登ることで「力の使わない登り方」を探索することができます。これは体幹を活かした登り方に通じるところがあるので、僕はヨレてからも課題のグレードを下げながら継続的に登り続けることにしています。
 ここからちょっと詩的な表現が多発するかもしれませんが、まあ書きます。力を使わない登り方、つまり変に力まないということですが、これができると、意識が身体の中心にありながら手足を動かせているような気がします。たとえば、これはヨレている時に限りませんが、初級課題だと普通にできるんですが、ホールドを取りに行く時に、手は大雑把に次のホールドの方に向けながら、細かい位置合わせを足の踏み込みでやる。具体的にいえば、取りたいホールドの10センチ下まで手を持ってきて、あとは手も腕もそのままで、踏み込んだ足の膝を伸ばすことでその10センチを稼ぐ。これは体幹オンリーというよりは主に足を使った登り方なんですが、手という末端への意識を薄めながら掴むというやり方は、説明しようとしている「力を使わない登り方」と同じです。…体幹に足は含まれないのか、と今書きながら疑問に思ってきましたが、これは難しいところですね。現在の僕の感覚では両者をあまり分離できていないのですが、たぶん理想をいえば「別もの」だという気がします。

──ちょっと話が変わるんですが、料理の味について、書きます。いや、問題は料理じゃなくて人のほうなので、味覚についてですね。美味しいとか、あと辛い苦い云々は、あれは脳の作用ですね。味覚がなくなるのは、舌の異常もあるかもしれませんが、味蕾だったか、舌の神経と繋がった脳の一部が機能不全という場合もあると思います。何が言いたいかというと、美味しいというのは、身体が感じることではないのですね。それを昨日、ジムから帰ってきてスーパーから半額セールで買ってきた鶏肉のカツレツを食べた時に考えました。安物の、ではなくて多分肉の生っぽさが残っていたのか、レンジで温めてから食べた時に妙な生臭さがあったんですが、それとは関係なく、噛んで飲み込んだ時に身体にある種の充実を感じました。ジムで長時間登るとよくあるのですが、それは「タンパク質渇望感」と勝手に呼んでいる状態で、その時に肉を食べたり豆乳を飲んだりすると、普段それらを摂る場合とは違った感覚が生じます。「この充実感は美味しさとは別だ」と昨日思ったのは、たまたま鶏肉が少々生臭かったおかげなのです。そしてそれから思ったのは、「これは身体が感じていることじゃないのかな」ということでした。

──身体感覚そのものは、言葉にすることが困難で、そもそも意識が身体感覚をきちんと把握するのに長けていないせいもあり(上記の美味しさの話も、食べて感じるのだからなんとなく身体感覚だと思ってしまいますが、全部が全部そうではないのです)、身体を動かしている時、あるいはもっと全般的に身体が活動している時の幽かな感覚という具体例と、その感覚と相関がありそうな意識や身体状況や環境などをもとにした、具体例に対する考察によって、身体感覚の言語化を少しずつ進めていく。そしてこの姿勢、身体に対する感度を研ぎ澄ませることと意識を身体に沿わせること、これらによって身体感覚自体も少しずつ充実していくはずだと思います。話を戻せば、僕はそのための手がかりをクライミングに求めているということです。「合気道などの武道に興味を持っていたが結果的にボルダリングを始めることになった」という一見訳の分からない事情を表す一文には、このような背景が込められています。