human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

GRAVITY LOVERS(後)

えーと、前半の内容はさておき、早速本題に入ります。

まず、件の動画を貼ります。
以下の話は、動画HP中に書いた文章と重複する部分もあります。
 

 
これは月一で通う近所のジムで撮ったものです。
いつもそういう動画は古本屋のインスタアカウントにアップするんですが、
最近は撮ってから上げるまでの時間差が開いてきたので、
今回の話題のためにニコニコ動画に上げてみました。

さて。
登璧の後半はバテて登りが雑なので、主に前半部分への言及になります。

(結論というか要点を先に知りたい方は飛んじゃってください)
 
<目次>

まえおきとよりみち

ほぼ天井のような傾斜の壁で、それほどしがみつく感じでもなく、
所々では悠々と一手が出てすら見えるのですが、
これはパワーに余裕があるからというより(最低限は要りますが)、
身体にかかる力の配分が慣性とほぼフィットしているからです。

次の一手を取りに行く時に、
持っていたホールドから手を離して別のホールドを目指すわけですが、
手を離した瞬間に身体全体が動かないということは、
その手以外の三点による支持で完全にバランスがとれていることを意味します。

そのバランスをとる姿勢の維持のために、
腕の筋肉などを偏って使っている場合は、そこが疲れてきますが、
全身(の筋肉や骨)を均等に使えていれば(あくまで理想ですが)、
あたかも地上にすらりと立っているだけ、のように壁に張り付くことができる。


この、「全身を使う感覚を練ること、その賦活」は、
スポーツの中でボルダリングが優れて行いやすく(何せそれを技術と捉えるので)

また武道的身体操法と非常に深い縁を感じるところでもあります。

合気道でも、手裏剣術でもいいのですが、
武道の基礎訓練の中に、
「敢えて一部の身体部位を制限して動作を行う(開始する)」
という思想があります。

それには敵に腕を掴まれた状態から逃れる、等々、
実践的な意味もあるのでしょうが、
動きの「身体を割る」、末端だけでなくその中枢(体幹)においても、
身体部位を細かく分けてそれぞれ別の動きができるようにする。
そのために、動かしやすい手先や足などを敢えて制限して動く訓練、
という意味もあります。


実は、ボルダリングは競技ルールからして、この性質を備えています。

決められたホールドだけを使って、身体一つで自由に登る、その方法を探ること。
登るルートに制限があることが、間接的に自由動作の可能性を制限します。
そして、その制限の中で自由に試行錯誤することは、
まさに「身体を割る」ことで、制限された自由を拡張していくこととイコールです。

ただ、今言ったことは「方向性の一つ」であって、
身体のいろんな部位を使えるようになって上達していくやり方もあれば、
主要な登り方に動員される特定の身体部位を集中的に鍛えてレベルを上げていく、
そういうやり方もある。
…というか、プロスポーツという枠組み内では、後者の方向性は必須です。

「ムーブ」と呼ばれる、半分定型化しているボルダリングの基礎(だけではないが)技術の、
そのそれぞれに要する身体部位のパワー、またその組み合わせが(わりと明確に)あり、
課題のルートを作る人は、その明確さに依拠することで一般的な課題のレベルを設定できる。

わかりやすい能力基準があるから、それを大人数のなかで競うことができる。
これはスポーツ全般の性質です。

では武道はというと、武道はスポーツではありません。
…という一言が、当たり前に聞こえる人とそうでない人がいるはずで、
僕は前者ですが、そういう人にとっては、
現代の剣道も柔道も、武道ではない、ということになります。

それはよくて。
簡単にいえば、武道は人と競うことを(手段ではありえても)本質としない。
えーと、話が逸れつつあるので戻します。

よりみちはつづく

ボルダリングには武道と共通の性質がある、という話でした。
もう少し戻ります。
いや、違うな、武道の話をします。

「地面にリラックスして立っている」ように登る。
これは全身をうまく使うためのクライミングのコツ、の一つの表現なのですが、
そもそも立つ姿勢はリラックスできるのか?
という疑問もありえます。
 理想的な姿勢を、ビシッとした、海兵隊の敬礼姿勢のようなものと想定すれば、
 それはリラックスとは程遠いものとなります。
 それにそもそも、立っている時は足や腰だけを使っていてバランス悪いじゃないか、
 と思うかもしれない。
実は、「武道的な立ち方」というものがあります。
 足を肩幅より少し外側に広げて、
 膝を軽く曲げて、
 お尻を腰骨の真下に「収納」して、
 両肩を下げて、
 遠くを見る。
という、これはあくまで、本をいくつか読んで僕がイメージする姿勢ですが、
特にこの「お尻の収納」によって上半身と下半身がつながり、
立姿勢における腰への(上半身の荷重という)負担が足に流れていく。


重力は、あらゆる物質にその密度に応じて作用するわけですが、
もとは一体である人間の身体も、その名を付けて各部位にバラして考えれば、
各々の身体部位ごとにそれぞれ一定の重力を受ける。
その人の姿勢に関係なく。

寝ている姿勢がリラックスできるのは、
身体各部にかかる重力が、
その身体各部のすぐ下にある地面に逃げていきやすいからです。

いっぽうで立っている姿勢がなんだか体力を使うように思われ、
腰や膝に負担がかかるように感じられるのは、
上半身にかかる重力は地面からは離れていて、
地面に逃げる前に、下半身の(特に)関節各部に集中しがちだからです。

だから、立姿勢はそもそも(つまり物理的に)重力がアンバランスにかかるんですが、
その人体構造上の傾向(前者)と、ではその構造をどう扱うのか(後者)は、
イコールではない(妙な言い方)、というか、
前者は後者に従わざるを得ないのではなく、
前者を前提にして後者はいくらでも工夫できる、という関係にあります。

純化していえば、人体の動作能力の向上という目標に対して、
筋力トレーニングや単純動作の反復練習は前者にアプローチし(増強、補強)、
武道的、古武術的な身体動作の開発探究は後者にアプローチします。


話が進まんな…また戻します。
重力の話をしたいのでした。

重力に自然に従って動けるようになるために、
重力を理解する必要はありません。
むしろ、頭での理解は、自然な動作を妨げる方に進みやすい。
というか、ジャングルの木々を飛び回る猿の動きを「自然動作の理想」と考えれば、
頭で考えることはその状態から離れていく(進化論的にも)ことといえる。

身体の大きさ、身体各部の相対重量、筋肉や骨の比率など、
違うところはいくらでもありますが、
ボルダリングにおける理想は「猿の木登り」であると考えて大きく過たない。

進化によって頭で考えることをやり過ぎてしまった人間は、
その理想的な動き、自然な動きを目指す(取り戻す…という言い方は怪しい)ために、
あらためて「考え直す」必要がある。

脚立が使えれば、ハシゴがのぼれればボルダリングはできる、といいますが、
登璧の身体運用を掘り下げていくと、ある段階から、
日常動作のシンプルな延長ではなく、それとは別のフェーズへ進んでいくことができます。

(注意ですが、先の「筋力トレーニング的身体観」は日常動作のシンプルな延長であって、
 それでいくら身体を鍛えて登れるグレードが上がっても、あくまで日常動作の延長です。
 もちろん、方向性の問題であって、良し悪しはそれを採用する個人が判断することです)


話を戻します(何度目だ)。

立姿勢には、重力の負荷を全身に散らす立ち方もある。
それには、身体を割って、身体各部への感度を上げる必要がある。
そのような立ち方の実現への道は長くとも、
そういうものがあるとして、
そのような立ち方ライクな登り方もまたある、
ということを同時に探究していく。
これは、立ち方が登り方のヒントになり
その逆、登り方が立ち方のヒントになることもある、ということです。

そして「立ち方」のほうは、至極シンプルながら、
武道の基本の型のごとく何十年続けても完全な会得にたどり着かない、
かもしれない。
一方で、「登り方」のほうは、バリエーションがふんだんにある。

やっと本題

何の話かというと、「重力のバリエーション」です。

ふつうは「慣性」と言いますが、
あらゆる身体の動きが重力の統制上に成立するということは、
その動きのプロセス(真っ只中)において身体が受ける任意方向の加速度、
つまり身体動作に伴うあらゆる慣性は重力のバリエーションである
と考えることができます。

やっと話が本題に入ったのですが、
今ここに書いたことが、
この動画の自分の登りを何度か見ている間に思いついたことです。

そして、
「重力研究」というジムの名前の話を本記事の前編に書きましたが、
武道的なボルダリングとは、重力を対象化するのではなく、
いかにその身に引き受けるか、重力との一体化を実現するか、
いわば「重力を愛する人(Gravity Lover)」になれるか、
という方向性を持つものではないかとも思いました。

この、
「重力を愛する」という表現を、僕はいま初めて使うのですが、
こんな言い方をこれまでまるで思いつかなかったところ、
口にしてみれば実は全く違和感はないのだと教えてくれたのが、
サン=テグジュペリ(『人間の土地』)だった、ということです。


ボルダリングにおいて、
身体に対していろんな方向にかかる負荷、そして慣性(加速度)、
これらに、いかに抵抗せず、従順になれるか。

頭上に伸びる壁を登ること、
この、そもそもが重力に反する動きである営み、
それを「重力への抵抗」ではなく、「重力への従順」によって実現すること。

哲学的に考えれば大いなる矛盾として楽しそうですが(まあ単なる言葉の綾ですね)、
その言葉に惑わされず、いや、言葉の(気付きという)助力を得ながら、
この「武道的ボルダリング」を探究していこうと思います。
 
 × × ×

p.s. 1
冒頭に貼った動画の、ニコニコ動画HPでの説明文に、

「静中動、動中静」

ということを書いています。
この武道の言葉を、ボルダリングに応用(転用?)してみます。

この記事の最初の方で、
一手を取りに行く時に身体が振られる話を書きました。

両手両足の4点支持の状態から、いずれか1点を放して、別の位置へ移動する。
この移動が、残り3点を維持したまま行える動きを「スタティックムーブ」、
また、1点どころか数点放し、全身の動きを伴う動きを「ダイナミックムーブ」、
正式な用語はちょっと違うと思いますが、たとえばこのような言い方があります。

スタティックムーブなら、全身を大きく動かさずに一手を進めることができます。
とはいえ、残りの3点をホールドに置いたままではあっても、
その3点にかかる負荷のバランスが(大きく)変われば、
一手を取りに行く間に(変化した負荷バランスの再配置のために)身体が振られます。

この、
「スタティックムーブにおいて『身体の振られ』を(体感上)ゼロにすること」
これを、
ボルダリングにおける「静中動、動中静」と呼んでみたいと思います。

ワンムーブのプロセス全体において身体が全く振られないということは、
「そのあいだずっと身体の重心位置が変化していないこと」と近似できます。

身体の(壁に対する)相対位置、それと身体姿勢も変化している中で、
身体の重心位置を維持するためには、
身体のいろんな部分をいろいろな方向に動かす必要があるはずです(表現が雑)。
(でもこう書けば、甲野善紀氏の「多方向異速度同時進行」の術理と親近します)

そして、そのような動きを実現することで、
外から見た人には身体が全くブレていないように見える。
以上のことは、「必然的な動線」という概念を導入すれば、
ダイナミックムーブにおいても同様に考えられます。

うーん、とても武道的な話ですね😊
 

p.s. 2
「言葉の助力を得て」とい言い方をしましたが、
いわば人間は、猿(というか動物一般)だった頃は自然な身体動作だったのが、
言葉によって自然な動作に様々な偏見がくっついてしまった。
(まあ「手で道具を使う」も偏見ですけど、おかげでいろいろ便利になりました)
その、言葉によって得た偏見を、同じく言葉によって解除していこう、ということです。

時代小説家で居合道・手裏剣術を探究されている多田容子氏は、
古武術は「目からウロコを剥がし続ける営みである」と新書に書いてましたが、
人間にとって、
自分の目にウロコをどんどん貼り付けていくのも言葉だし、
そのウロコをひとつずつ丹念に剥がしていくのも言葉である、
ということです。

なので、身体動作について、
とにかくいろいろ言葉にして表現してみることは大事なことです。
もちろん、その言葉は実動作を伴うものであったほうがいい。