human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

危険社会の現実主義的頽廃と形而上的リスクヘッジ

社会が階級社会から危険社会へと移行するとき、共有という関係の質も変わり始める。
(…)
階級社会の発展力は、平等という理想とつねにかかわっている。(…)しかし、危険社会においては、このような価値体系は見られない。危険社会の基礎となり、社会を動かしている規範的な対立概念は、安全性である。危険社会には、「不平等」社会の価値体系に代わって、「不安」社会の価値体系が現れる。

平等というユートピアには、社会を変革するという、内容的にも積極的な目標が多い。一方、安全というユートピアは消極的で防御的である。ここでは、「良い物」を獲得することは、もはや本質的な問題ではない。最悪の事態を避けることだけが関心事となる。

「第一章 富の分配と危険の分配の論理について」p.75
ウルリヒ・ベック『危険社会』

危険社会は、不安社会でもある。
不安が、社会を動かすエネルギー源となる。

現代社会は生きにくい時代である」

という表現が、時評や社会批評の枕詞としてよく出てきますが、
人々が「生きにくい」と考え、感じる理由が個々に色々あるにせよ、
みんながそう思うこと、それが社会の総意ではないにしろ隠れた基調としてあること、
そのこと自体が現代の特徴、すなわち不安社会の特色である。

何か同語反復のようですが…

不安が社会の通奏低音である現代なんて、まさに不幸の時代である、
というシンプルな感想も抱きうると思います。

ただ、時代に関わらず、誰しも幸福と不幸の時期をそれぞれ繰り返すのであり、
言葉は言い放ったそばから意味が遊離するものであることを鑑みれば
(後者を言い換えれば、言葉は発言者を規定するだけでなく変化させもする)、
不安社会は不安の共有、共通理解を通じて幸福を捻出する社会である
という「ひとひねり」を、その感想に加えることができます。


僕が「現代の生きにくさ」と言われていつも思いつくのは、
環境問題が人類から無垢性を引き剥がしたこと、です。
人間の地球上での活動が、地球にダメージを与える、という発想。
 思えば、狩猟にせよ農耕にせよ、
 乱獲や過剰な収穫が近い未来のしっぺ返しを食うことは、
 小さな地域に定住する民、また周期的にいくつかの地域を巡る民にとって、
 経験上の知識(それが宗教行事に昇華される)としてあったはずです。
 だから、人間が環境の一部であるという認識は何ら新しいものではない。
 でも、その中世以前には、「自然の限界」という概念は(たぶん)なかった。
 宇宙から地球の写真が撮られ(「地球は青かった」)、
 また石油など天然資源の埋蔵量の限界が議論されるようになって(ローマクラブ)、
 そこで初めて、人間の生が、
 地球に対してある種の原罪を負っているという感覚が生まれた。
 (いや、キリスト教にも生まれ持った原罪という考え方があって、
  信者はそれを生前に贖うことで死後に天国に召される(のだっけ?)。
  だからキリスト教徒にとっては、
  原罪が宗教的なものから科学的なものに変わった、ということ?
  …いや、自然との共生が文化として当たり前にあった時代の人々は、
  そもそも自然に対して無垢(全く責任を負っていない)ではありえなかったのか)

この話、何度かブログに書いたおぼえがあって、
でも今回は同じようなことを書くのかなと思いきや違う認識に至ったんですが、
 アメリカ大陸に進出した西欧の開拓者にとって大陸の自然は荒涼としていて、
 自然は人にひたすら厳しいゆえ、征服の対象、制御の対象として見られていたのに対し、
 温帯モンスーン気候のアジア人にとって自然は脅威であると同時に恵みの源でもあって、
 自然に対しては暮らしの必要最低限の操作に留める「手入れ文化」が発達した、
といった自然観の東西差については梅棹忠夫などを読んで知っていましたが、
「自然に対する人類の無垢性」という考え方がこれらのどこに位置付けられるか
を考えたことがなくて、今考えると、たぶんこれは西洋的な発想なのですね。

 「自然は道具である」
 「自然は人類の生存のために自由に利用できる資源である」
という自然観に、
 「使い過ぎると回復しなくなるからほどほどに利用しよう」
という譲歩がくっついても、
やはりこれは人間中心の視点であって、
人間は自然と対等であるという姿勢からは程遠く、
また人間が自然に対して「直接に」責任を負っているという感覚もない。

実は「人間は自然の一部」から「人間は自然と対等である」が直通で導けるはずなんですが、
これは論理的であっても合理的(←グローバルスタンダードあるいは進化論)ではないのですね。
前者は日常的に使われますが、後者はこの言葉を使おうものなら、
「お前はナチュラリストか」とでも言われそうなイデオロギー性を負わされています。
でも、この差の大元って、
人間が自分たちのことを考えるんだからヒューマニズムは常識
みたいな短絡ではないでしょうか。


…すみません。
思いのほか脱線が面白かったのでつい続けてしまいました。
本題へ戻る。


不安社会の話でした。

不安を社会で共有してみんなで安心を得る。
なんだかシンプルじゃないというか、
面倒なことだなあと思うんですが、
これは実はかなり恐ろしいことなのですね。

不安を使って不安をなくす、というのは、
わかりやすくいえば、
「目前の不安に別の不安をぶつけて相殺する」
というようなもので、
そのやり方が不器用だと「別の不安」が「目前の不安」に重なってさらに辛い
ってことにもなりかねない(もうなってるか)。

というか、現代社会の複雑さを一言で表せば
「多種多様な不安の相殺合戦」となるのでしょうね。
だから、情報ひとつでものごとの価値がくるくる入れ替わるし、
身の丈感覚が「不安の相殺合戦」につけ入る余地はないし、
でも人間の生活って本質的に身の丈だから「じゃ、見なかったことに」で済まそうとする。

階級社会の原動力は、「渇望がある」という言葉に要約できるとしたら、危険社会を進展させる運動エネルギーは「不安である」という言葉で表現できよう。つまり、危険社会では、階級社会にみられる欠乏の共有に代わって、不安の共有がみられる。この意味で、危険社会という社会形態の特徴は不安からの連帯が生じ、それが政治的な力となることである。

同上 p.75

この引用部がすごいことを言っています。

 社会を進展させるエネルギーが「不安」である。
 え、でも「不安」って、行動の停滞も引き起こすんじゃないかしら。
階級社会の原動力は「渇望」で、これは前向きにのみ働く。
高度経済成長期の日本も「渇望」を元手に飛躍した(階級社会じゃなくて「一億総中流」ですけど)。

「渇望」は、いわば前進しかできない車のガソリンにあたります。
そして同じ比喩でいけば、「不安」のガソリン車は、前進もするしバックもする。

あれ?
なんか後者の方がまともに聞こえる喩えになっちゃいました。
…いや、もしかして。


「不安」を原動力にした社会って両極に走るんだよという、
危険なイメージを表そうと思って上を書いていたんですが、
あるいは、
危険社会は階級社会よりも「人間的」な社会なのかもしれません。


ただ、
「より人間的な社会」が、
そこで暮らす人間にとってハッピーなものなのかどうか、

これには一考の余地があります。
もちろん、
社会は、人間に喩えられることはあっても人間とはぜんぜん違うからです。

「より人間的な社会」…。
たとえば、独裁国家とか。
貴族領主のいない王政社会とか。
うーん。。


p.s.
タイトルの話にたどりつきませんでした。
つけなおすのも面倒だし。
えー、タイトル詐欺、黙認します(もう黙認じゃないけど)。