それこそが《敵》なのだと私は思いました。《敵》は資本主義ではなく、私が《大きなモナド》と呼んだ、誰もコントロールできない発展のプロセスなのです。人間は自分たちがその発展の作り手だと思っていますが、実は人間は作り手ではなく、ただ単にその担い手であるに過ぎません。このプロセスは人間よりも遠くからやって来て、また人間よりも遠くにまで行くのです。(…)なぜ《敵》なのか。それは、まさに倫理がないからであり、倫理を必要としていないからなのです。そして、倫理だけでなく、それはまた美学も必要とはしていません。そこにあるのは、われわれが理解しているような意味における《エクリチュー ル》では全くないような美学でしかありません。そこにあるのは、情報を生産するという必要だけなのです。それに対して、私がさきほど、《ユダヤ的思考》という名のもとに、大急ぎで描いたもののなかには、情報はありません。このような思考の様態においては、あるのは情報ではなく、出来事なのです。われわれは、何世紀もかかって、出来事のなかに含まれている情報を理解しようと努力します。しかし、ある意味では、われわれはけっしてそこに到達することはありません。すなわち、出来事の意味、つまり出来事が運んでいるものをわれわれが《情報》と呼ぶものへと特定化し、固定化することは、まさに倫理を禁じてしまうのであり、そのことはあなた[質問者=豊崎光一]が《ストックされた思考》──つまりただストックされたに過ぎない思考──について語った通りです。倫理にもエクリチュールにも、いかなるストックもありません。それぞれの度ごとに、ひとは《はじめ》にいます。この誕生については、ハンナ・アーレントにとても美しい文章があります。反省的判断についてのものです。反省的判断は誕生のようなものなのです。それは、知識なく、つまり判断基準なく判断するという能力だからです。
ところが、われわれは、発展によって極度の脅威に曝されています。それは、この発展が認識、情報、コミュニケーション、流通、そして進歩についての理念を持っているからです。つまりその発展においては、意味は、まさに出来事を迎え入れるために、そして私の言う《起こるか?》のために、そしてエクリチュールの源泉である瞑想のために必要な、空虚な時間、空虚な空間というものを排除してしまうからなのです。これが、私がごく簡単にお答えできることです。
「ハイデガーが知らなかったもの 《ユダヤ的なるもの》と西欧における倫理の問題」ジャン=フランソワ・リオタール/小林康夫訳
『現代思想 1989.4 Vol17-5 臨時増刊 総特集 ファシズム』p.128-129
※太字は引用者