human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

小指関節と肩の痛み、責任回避推奨社会

登壁と身体の話。

・ブランクがあいてから身体が重い
筋肉云々より体重のせいで、以前登れたコースに歯が立たない。
無理せずやさしめの課題を多くこなしてまずは減量をめざす。

・右小指の関節が痛い
登る課題が難しくなってくると故障の質も変わってくる。
これは一般論で、たぶんこの痛みはこれと関係がない。
小指は実は大切とはいえ、基本的に掴み動作で力が入るのは中の三本指。
なので原因は他にあって、思うに「飛びつき」を無闇にやっていたせい。
やさしめ課題をアレンジしようとしてホールドをとばして飛びつく。
おそらくそのとき手の外側(小指側)からとりつく形になったのだと思う。
上記「無理せず」の言の由、ここにあり。

・左肩が痛い
肩凝りの時に揉む、首との境目のあたり。
凝っているのではなく痛い。
これは日がな読書のせいではなく、これもムーブのせい。
ルーフ3級課題で左手から飛びついた時に、右手が剥がれて左肩に負荷が集中した。
元々飛びつけるガバホールドなので左手指は支障なし。
この痛みは仕方がない。
まだ「飛びつき片手ブラ」に耐えうる肩力が不足しているのかもしれない。
回復を待つ。

 × × ×

『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)読中。
(SIMは"Moonshadow"(村松健「Blue」)に変更)

「戦後を、戦後以後考える」という章の中。
若者が戦争責任をどう引き受けるかという話題。
加藤氏は「"戦争責任はない"という発言から責任を負っていくべき」という。
子どもは自己のイノセントを承認されて初めて、自分で責任を引き受けていく。
理由などなくとも。
発達障害の子どもの回復例やラカン鏡像段階の説がでてくる。
また、子どもの「人が死ぬ夢」で誰が最も多く夢の中で死ぬか、という話。
なるほどと思い、今の無責任社会との関連を考える。


戦地へ向かう日本人への、「自己責任」発言の嵐。
その嵐に政府の役人すら加担する。
あるいは、責任は負わないに限る、という常識に登録されたかの風潮。
責任を負ったら損だ。
企業の謝罪会見、不祥事を水に流すための役員辞職、議員辞職。
 あるいは「事態の改善を進めていく責任がある」と宣う長の辞職拒否。
 これは責任の意味の散逸(個人的解釈の横行)の例。
責任を負わないことに利得があり、効果があり、すなわち意味がある。
責任を負うことにも、また違った、あるいは同じような、意味がある。

「責任は人からどうこう言われるより先、自分で背負うものである」
ハリボテに堕ちたこの建前はそういえば、上の加藤氏の論と通ずる。


自分には、現代日本は「責任回避を社会が推奨している」ように見える。
その原動力としては本音主義がある。
本音が建前の背中を抜け出て跳梁跋扈するのは高度情報社会の成り行きである。
ツイッターなど。

加藤氏の「個人が自分から責任を引き受けていくプロセス」論を虫食いで取り上げる。
社会に生きる自己と、その内側に胚胎する原・自己。
子どもが見る「人が死ぬ夢」で、最も多く死ぬのは自分自身だという。
 夢で死ぬ自分は自己であり、殺すのは原・自己である。
 原・自己は、社会に適応しようとする自己に反発している。
 起きて「ああ、夢でよかった」と言うのは自己である。
 イノセンスを表白する原・自己を、自己が承認することで解体し、馴致していく。
原・自己が取り残されたまま成長したのが、上で触れた養子の発達障害児の例である。
 生まれて数年で養子となり、新しい親からは別の名前が与えられた男の子。
 彼は精神科医が「原・自己に届くように」元の名前で呼びかけることで回復する。

イノセンスな原・自己を承認されないと、社会性の獲得に支障が生じる。
この社会性とはもちろん、個人が自分から責任を引き受けていくこと、である。
しかしそれは現代「責任回避推奨社会」の社会性とは逆向きである。
これはどう考えればいいのだろう?

原・自己の承認がないまま社会に放り出された若者たちの回帰願望に基づく主張。
その主張は「責任回避推奨社会」の本音側の意に沿い、承認される。
自己は原・自己の安定という土台を得て社会性を身につける、はずが、
その自己が社会で直面するのは、社会が原・自己の欲望で回っている事実。
自分の外に、秘すべきはずの個人の内奥があらわに曝されている社会。
(※「本音の横溢」現象は、それによって承認となるわけではないかもしれない)

生後の原理的なイノセンスが承認されない点に、現代社会の人間に対する無理解がある。
承認されないと思ってしまう、思わざるを得ない、状況がある。
たとえば環境問題。
 自分の生存が地球環境を汚染する。
 人を殺すことがエコになる。自殺然り、望ましくは大量虐殺。
 量的議論なしに建前だけが蔓延すると、論理が、正義が暴走する。
 これは科学の発達途上や限界のせいではなく、科学に対する価値観のせい。
『ハーモニー』(伊藤計劃)では核戦争後に人体が公共物となる健康至上社会が描かれる。
自分の身体に対する「リソース意識」。
これも「イノセンスの非承認」の一形態。

ただ、思うのは、
では昔の社会が人間を理解していたかといえば、そうではないだろうと。
それはたぶん、たまたまなのだ。
道具が発達してしまったから、人間理解に基づいた社会運用が必要になった。
道具、すなわち科学技術。
この「必要」とはしかし、社会が決めることではあるが…