human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

現実へのリンクとしての「自己包摂性」

自己包摂性(アウトローギッシュ)

自己包摂的な概念とは、その概念自体を定義のなかで用いることによってのみ定義できるような概念である。そうした概念は、その概念自体に適用することが可能であり、必要でもある(そうしても無意味にはならない)。たとえば個性(インディヴィデュアリティー)とは、それぞれの個人(インディヴィデュアル)の事柄である。学問から例を挙げれば、知識社会学は自分自身を対象にする。つまりそれは、自分自身に当てはまるものでなければならない。言い換えれば、知識社会学はつねに、知識社会学についての知識社会学でもなければならない。一般化すればこうである。他人が自分で見ることのできない区別によって観察していることを私が観察する場合、私は、私が観察するさいにもやはり「自分には見えない」何らかの区別を用いているという「自己包摂的な」自分自身への当てはめをすることができる

用語解説 p.277-278 (ノルベルト・ボルツ『意味に餓える社会』東京大学出版会、1998)

この本を読んでいて、「自己包摂性」という新たなキーワードに出会いました。
自分が普段から興味をもっているなにか、性質や機能としては漠然と把握しつつ、しかしなかなか言葉にしづらいなにか。
その「なにか」に、とてもスマートな表現が与えられた気がしました。

僕の「漠然とした把握」とその表現とはもちろん食い違いがあり、しかしそのズレが存在することによって、思考の動機や、発見、新しくひらける視界(同じものが前と違って見える)、そのようなものが導かれることがある。

 × × ×

僕の関心から表現すると、自己包摂性とは、現実の性質ではないかと思います。

リアリティといってもいいんですが、普段使われるこの単語の意味は「現実っぽさ」であって、ほんとうはそうではない。
「現実っぽさ」というのは、「他人(誰か)が見て現実だと思うようなさま」であり、つまりは主観的幻想に縁取られた現実のことです。

たとえば今の日本の政権は、コロナ対策であれ他の政策であれ、「やってる感」の演出にこだわっています。
政策の策定根拠が、実質的な効果(もちろん見積上の)よりも、形式や見栄えにおかれており、加えてその形式や見栄えの判断主体も至極曖昧である。
いや、曖昧というか、言ってしまえば、「やってる感」を納得・感得しうると想定している主体も政権自身であって、この点は先の記事で取り上げた「自己準拠性」の好例で、つまり「私がちゃんと仕事をしていると思って仕事をしているんだから、私はちゃんと仕事をしているんだよ」と、願掛けや念仏のように自分に唱えて、それを事実だと思い込んでいる人が政権中枢にいる(別の文脈ですが、内田樹氏はブログで「彼」のことを、科学的ではなく「呪術的」に政治判断を下していると書いていました)。

話を戻すと、「現実っぽさ」とは、今流行りの「やってる感」と同じで、相当に幻想的なものです。

小説に対する批評として「リアリティがある」とよく言われますが、これは、「現実にありそうだ」ということを意味します。
ところが、「現実にありそうだ」という感覚自体が、時代とともに移り変わっていく。
たとえば、リアリティ溢れる小説というのは、つまりほとんどノンフィクションである、ということなのか?
いや、実際のノンフィクションが嘘くさい、「現実っぽくない」ことは十分にありうる。
世間の日常生活からすればかけ離れた感覚や価値観、ドラマ性を備えた現実の事件について克明に記録されたノンフィクション、それが「その意味で」現実であればあるほど、世間日常の目からすれば「現実っぽくない」作品に映ることは道理である。

もう一つ回り道をします。

ハイゼンベルク不確定性原理」がいいヒントになります。
電子の挙動を観測するための測定行為が、ありのままを見たいその電子の挙動を変えてしまう。
完全に客観的な現象の観測はミクロの世界では不可能である。
この原理はしかし、「ミクロの世界」の外にも活路があります。
活路というのは、メタファーとしての活用、ということです。

人間の意識を考えればいい。
何かを考えるとする。
その思考対象を、純粋に把握したいと意図するとする。
しかし、そうして開始された思考の中に「その対象を思考する自分」が含まれることを、避けることはできない。
「純粋な把握」が一連の文章として表現された時、その文章を読んで自分は考え込むことになる。
思考を開始する前には思ってもみなかったことが、その文章に含まれているからだ。
そしてこうも思う。
「これを考える前の自分と、今考え終えた自分は、同じ自分なのだろうか?」

なにか別の話になっているかもしれません。
いや、やはり同じ話なのです。
少しずつ言い換えてみます。
 観測主体が対象に全く影響を与えずに観測することはできない。
 観測主体は対象に対して、観測において中立性を維持できない。
 観測主体は対象と必然的にある関係を結び、その関係性は観測において変化する。
ここまでは、科学的実験において言えることです。
3つめにいう「関係性の変化」は、観測主体が人間(の意識)であれば、こう言い換えることができる。
 観測主体は対象の観測において変化する。
ある人にとって「関係性の変化」は、その人自身の変化でもあるからです。


自己包摂性の話をしていました。

現実というのはつねに、過去が未来に繰り込まれているのです。
あらゆるものが変化し続け、一定の姿を保つものは存在しない。
形を保って見える物体は、その変化が知覚できないほど遅く、また微小であるに過ぎない。
それはメタファーではなく、万物は流転する。

……今気付きましたが、僕が現実だと感じたのは「言語表現における」自己包摂性に対してです。
(だから今まで書いたことは途中から話がおかしい、たぶん)

言葉の機能のうちのひとつは、意味を定着させることです。
多くの人が、同じ単語に共通の意味を設定し、それを了解することで、齟齬のない意思伝達が可能となる。
それは他者との生きたコミュニケーションをするうえで、とても大事な機能です。
でも、別の見方がある。
生物の本質が変化にあるとすれば、生きたコミュニケーションの正確な実現のために、意味の固着に基づいて用いられる言葉は「死んでいる」。
時間経過に従って意味をどんどん変えていく、そのような言葉を「生きている」と呼べば、そうなる。
「生きている」言葉を使えば、コミュニケーションは誤解の量産にしかならない。
けれど、事は「ゼロかイチか」ではない。

 × × ×

……。

とっちらかった話を、まとめられませんでした。
最初に書きたかったことを唐突に置き逃げして帰結とします。
意味をきちんと把握せず用いられた言葉は、名残とともに、
未来の思考継続の契機としたいと思います。


「自己包摂性」という言葉を知って、
僕は「自己包摂的な言葉(文章)」があると思いました。
そのような文章は、その性質によって、一つの現実です。
そしてそのような文章は、その性質によって、分野(たとえば学問分類)に関わりなく、
相互にリンクし得る、また僕自身の現実である生活とリンクし得る。

だから僕は、こう思いました。

もしかすると、
あらゆる「自己包摂的な文章」を興味深く読めるのではないか。
さらに、
もしかすると、
ある文章の「自己包摂性」は、その文章の内的な性質ではないのではないか。

それは、たとえ幻想であれ、読み手の姿勢が生み出すものではないのか。