human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

現実のふり、の現実、のふり、の…

 だいたい、パパがお話をしてくれるのは、寝る前だ。パパはこんな具合に始める。
「さて、もう寝る時間だ。その前に、ひとつ、お話をしよう。ききたいかい?」パパはいった。
 パパは、ぼくにお話してくれる前に、かならず「ききたいかい?」という。「どうして『ききたいかい?』っていうの?」ってきいたら、パパは「お話というものは、ききたくないひとにするべきではないからだ」という。
「ききたいかい?」
「ききたくない」
「わかった。では、今晩は、お話はなし。おやすみ」
 パパはぼくに背中を向けて、寝たふりをする。ぐうぐう。
 ぼくも、パパと反対の方を向いて、寝たふりをする。ぐうぐう。
 でも、けっきょく、がまんできなくなって、ぼくは、こういう。
「パパ」
「なんですか」
「もう、寝たの?」
「寝たよ」
「起きてるみたいだけど」
「いや、起きている『ふり』をしているだけだ」
「ふーん。じゃあ、ぼくも起きている『ふり』をしてもいいかな?」
「いいとも」

お伽草紙」 (高橋源一郎さよならクリストファー・ロビン』)
太字は引用者

 
 木の上に座っているサルが言った。
 「二階から目薬」
 焚き火の前で汗をかいているカニが言った。
 「火中の栗を拾う」

 切り株の前で手を合わせたウサギが言った。
 「三方一両損
 頭に鉢巻を巻いたカメが言った。
 「まんじゅうこわい

 小屋のドアをノックするオオカミが言った。
 「三密を回避しましょう」
 藁小屋を編みながらブタが言った。
 「バブル期には土地転がしが有効です」

 父さんが言った。
 「笑って〜……」
 母さんが言った。
 「ダメもと!」

 サングラスの奥の目は、笑っていない。
 

 経験が同一の体験様式あるいは認知様式に関わっている限り、したがって経験がある限定的な意味領域のうちに留まっている限り、その経験の現実性は持続する。われわれが現実のアクセントを別の意味領域に移さざるを得ない──あるいは「移そうとする」のは、われわれが別のライフプランによって別の態度をとるよう動機づけられる時(…)、あるいは「異他的なものの介入」によって邪魔される時(…)、要するに、われわれにとってある時点において「現実的」である限定的な意味領域の境界を突破する特有のショックを経験する時に限られている。

「第二章 生活世界の成層化」p.82-83 (アルフレッド・シュッツ、トーマス・ルックマン『生活世界の構造』ちくま学芸文庫
太字は引用書傍点部

私は自分がその女(名前も知らない若い女)を最後の瞬間に本当に絞め殺してしまうのではないかと、心の底で恐れていたのだ。「ふりをするだけでいいの」と彼女は言った。しかしそれだけでは済まないかもしれなかった。ふりだけでは終わらないかもしれなかった。そしてそのふりだけでは終わらない要因は、私自身の中にあった。
 ぼくもぼくのことが理解できればと思う。でもそれは簡単なことじゃない

村上春樹騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』新潮社
太字は引用傍点部、下線は引用太字部

体験を処理する形式としての意味はつねに不確定的である。意味は、これだとかあれだとか言えるものではなく、別の可能性の参照を求める。このように、意味は、さまざまの可能性を過剰に参照させるものであるが、同時に、「現実世界におけるさまざまの可能性を繋ぎ止める場所(N・ルーマン)でもある。意味とは、われわれがどんな行為においても世界全体のことを思い浮かべられるための媒体にほかならない。だから意味は、読んだり分析したりすることによって世界を選択的に整然と解明するものでは全くない。
(…)
人類学者の間では争いがないことのようだが、ある対象について意味が生まれるのは、個体同士がコミュニケーションによって互いに適応することによる。私の仕草に対する他の人々の反応が、その仕草の意味なのである。ユルゲン・フレーゼによれば、「ある行為の意味とは、その行為が開く多様な接続可能性のことである」。

「2 意味社会」p.77-79 (ノルベルト・ボルツ『意味に餓える社会』東京大学出版会
太字は引用者